昨日井上に借りた漫画も、ちょうどこんな展開だったな。
ふと思った瞬間、聞いているのかクドサキ、と凄まれた。聞いてなかった。クドサキ、
濁って鼻にかかったその声は、何度聞いても直らない体育教師鍵根の癖だ。耳障りなのに違いはないが、
入学以来こうもしつこく繰り返されると、今更直してほしいとも思わなくなってしまった。
その朝、いつも通りに家を出ていつも通りの道を行き、校門をくぐらんとする時に、エンカウント――
モンスター教師による抜き打ち服装検査に引っ掛かってしまったのだ。それも、くだらなすぎる理由で。
意気揚々と出発した勇者の旅路の出鼻をくじく、小物のおジャマ虫みたいに、
教師1はわめくのをやめない。つばが飛んで来ないことを祈る。
「いいかぁ、たかが校章と貴様は軽んじているのだろうが、されど校章!わが校の生徒でいたいなら最低
限、決められた制服に身を包みぃ、きちっと身なりを整えるべきなのだ。うん? 分かるかぁクドサキ?」
お前の学校じゃねえよ。
暑苦しい。地響きみたいな不快な声、近寄るな。他の生徒がそそくさと俺たちを避けて(検査する鍵根
一人が俺にかかりっきりで、周囲を省みないのを好機とばかりに)通り抜けて行くのが見えないのか。
だいたい、校章って――説教が身に堪えているとは思われたくないので、あくまで視線だけ下にずらす
――うつむき見た胸元の校章のワッペンは、確かに刺繍がほつれて外れかかっている。
それに俺が気づいてから、一ヶ月近く放って置いたのも事実だ。が。
「大体だなぁ、貴様は普段からなっとらんのだ!
改善する気はないのかね、え? 反省しますとか更生しますとか。その口は何のためについているんだ?」
そんな言いがかりのあれやこれやが、要はあら探しで単にこいつのうっぷん晴らしなのは明白だ。
このままおとなしくサンドバッグになるのは我慢ならず、反論しようと俺は口を開く。
「………、」
ところが。その時俺が何も言えなかったのは、門扉のかたわらに立ちふさがる鍵根の肩越しに見える、
こちらに歩いてくる彼女に気付いたからだ。借りた漫画。やわらかくよれた紙質。
あの指先がページをめくりめくって、こんな場所で巡りあって。
たつきや本匠と談笑しながら、井上が登校してきた。
生活指導の担当には嫌味を言われることもままある、あの明るい色の地毛を、朝の清い風になびかせて。
(……さっさとここを通り抜けろ、優等生!)
心の中で怒鳴ったせいか、以心伝心、何故だか視線はすぐにかちあう。黒目がちの瞳が瞬いたと思ったら、
『あ。』と井上は状況を飲み込んだような顔をして、それこそ本当に嚥下するみたいに、こくりと頷く。
それからの突飛な行動は、止める間もなかった。彼女の隣を歩く友人にも。
「!?」
あの大人しいストレートの長い髪に、耳をすませるにも似た仕草で指先を差し込み、
くると手中に絡め取る。そのままきゅ、きゅ、ときつく毛先を引っぱれば(俺には見覚えがある、
しゃれっ気の出て来た妹がカーラーを試すような)――繊細な髪に生まれる、軽やかなウェーブ。
呆れて物も言えない、言う間もない、お次は朝ご飯をたくわえたばかりのくびれに手をやったかと思うと、
ぐいとスカートの腰を折り込み、上げてしまった。どう見ても校則で禁止されている短さだ、明らかに。
そして極めつけは、魔法の呪文。
モンスターの注意を引きつけ気を惹く、勇者が使う、勇気のコマンド『はなしかける』!!
「鍵根先生、おっはようございまーす! 一年一組の井上、井上でございます。よろしくお願いします!」
「なっ……い、井上?! なんだその格好はぁぁっ」
あれほど、俺をじろじろとねめつけていた鍵根が――たった一言で、注意をそらされ。
びりびり、空気を震わすカミナリが落ちる。……あ、電気系だったのか、鍵根センセ。
選挙運動さながらに声を張り上げた彼女の挨拶に、モンスターはいとも簡単に混乱、激昂。
そうやって脳天に落とされる雷鳴にびくりと肩を震わせながらも、勇者は勇敢にすっくと前を
見据えたまま、怯んでそこを退いたりしない。どころか、しっしっと鍵根をうとましがるように
――俺を追い払うように、ひそかに目くばせをして手を振って、合図してくれるのだ。
(ここは任せた黒崎くん、あたしを置いて先に行け!)
……ここで逃げたら男がすたる。だけど。だけど。
ここで逃げなきゃ、あの勇気が無駄になる。あの可憐な勇者の顔に、泥を塗ることになる!
(いのちだいじに、いのちのおんじん!)
かくして、モンスター鍵根が井上の魔法の切り札、『校則違反/レッドカード』――に気を取られている
間、俺は逃げ足早くその場を離れた。これもある意味、色仕掛けと言うのだろうか……。
うう、一瞬は井上の度胸に後押しされてすたこら逃がしてもらったものの、やっぱ恥ずかしい奴だぞ、俺。
こんな時不愉快にも思い浮かぶのは、女子大好きな、あの俊足を誇る改造魂魄のマセガキのことなど。
なかなか人のことは言えないものだ。
周囲には井上の大げさな振る舞いだけが印象に残ることだろう、
そして校舎までたどりついた後には、たつきと本匠に追いつかれてこってりとしぼられるに違いない。
その時は素直に謝って、いやその前に、遅れて教室に駆けこむ、勇者にお礼を言わないと――
借りてきて一夜も待てずに読破した、読み込まれた冒険漫画を鞄の奥に忍ばせて。モンスターに没収され
る危機だけは運良くまぬがれた荷物を大事に抱えて、俺は一目散に、のちの再会を祈って校舎へと急いだ。