「なぁ、井上……こんなの、もう止めねえか?」
万策尽きて、俺はそれまで何度も繰り返した言葉にもう一度気持ちをこめて声にした。強く握り締めた、
昨日ならば彼女と手を繋いでいたはずのこの拳は、今は空っぽのままで、ただ力がこもっていくばかり。
その手がひどく冷えていると感じるのは、この季節に手袋を着けていないことだけが原因ではないだろう。
万力で締め付けるような師走の寒気。見やる先では、吹きつける木枯しに飛ばされて木の葉が舞い上がる。
背中を預けた玄関のドアは金属特有の冷たさをもち、寄りかかる自分を拒絶しているようにも思えた。
拒絶するのはドアだけではない、部屋の主も。未だ沈黙を破らず、未だ顔の見えない彼女のこと。
「……井上。悪いこた言わねーから、終わらせよう。何なら、最初っから全部無かったことにしてさ。」
無言は続く―――かと思いきや、その時。
『……っ、……』
インターフォンのスピーカーを通じて届く小さな反応に、思わず振り返った。息をのむ音。もしくは息を
詰める音。扉は相変わらず固く閉ざされていたが、その向こうに彼女が居ることは改めて実感出来た。
聞こえていない訳ではない。
まして無限の距離を置いている訳でも、ない。たったドア一枚が、俺達の歩みを阻んでいるのだ。
「頼む、井上……」
ドアスコープの正面に立って頭を下げる。ありったけの手持ち札を失くして名前を呼ぶしかない
自分に、彼女は――ついに、ついに声を上げた。だめなの、と、その人は。
『……いくら黒崎くんが今日の課題届けてくれても、欠席したお見舞いだって言っても駄目なものは駄目!
顔合わせたら絶対、風邪、うつしちゃうからっ!!』
最近学校で流行っている風邪に喉をやられたらしい、可愛らしい鼻声で、機械越しに叫んだのだった。
「ッの、なあ――
ちょっとプリント手渡したら帰るっつってんだろ! 俺も何も部屋に居座るつもりはねえから!開けろ!」
『いや! ……いいや、決して嫌じゃないんだけど、否って言うか……とにかく今は帰って!ください!』
拒絶を含む敬語にどきどきするなんて末期だと思う。そうでなくとも一人暮らしの女子高生の家の玄関前で
扉を開けろと怒鳴り散す派手な髪の男など(自他共に認める目つきの悪さももれなくオプションに付く)、
どう好意的に見ても不審者の域を出るものではない。
高校の制服姿でさえなければ、善良なる近隣住民の方々に通報されるのも時間の問題である。
訪ねた矢先、会いたくない――と言われた。
体力がなくて起きられないなら仕方もないが、感染すからとの理由。そう言う声はそれなりに元気だった。
まさか彼女が元気はつらつ満面の笑みで迎えてくれるとまでは自惚れていなくとも、ここまで拒まれると
さすがに、己の人間性さえ疑わしくなってくる。ああ、俺ってそんなに迷惑な野郎なんだろうか……。
「……くしょい。」
くしゃみすら意気消沈。
当たり前だ、もう十五分はこうやってマンションの一室の玄関前に立ち外気にさらされている。
最初こそインターフォン越しに応答した井上も、心底会いたくないのならいっそ電源を落とすなりして
自室に引っ込めばいいのに。通話状態だけを保つのは俺の主張にひそかに耳を傾けているようでもあって、
こちらも引っ込みつかず、帰るに帰れずで今に至る。
「……寒び。」
『……――まだ居る?』
「居んよ。開けるまでな」
『…………あ、の』
思いきり鼻をすすったら、声が大人しくなった。
インターフォンのすぐそばに耳を寄せているから、すぐ隣でささやかれている風にも聞こえる。
『あの……ほんとに、ほんとに帰っていいよ。ドアの下の郵便受け……そこに入れてて。ごめんね』
「嫌だ断る拒絶する」
『……外、寒いんでしょ? 黒崎くんも風邪引くかも』
「それ程でもねーな。でも井上の顔見たら帰れるわ」
『……実は風邪は完全に治ってたりして。あたしは大丈夫、だいじょうブイ! 明日はちゃんと登校する』
「じゃあ今会っても感染す心配とかいらねーだろ」
『…………』
状況悪化。むしろ退化。再び重苦しい沈黙が落ちる。つーかえらく懐かしいCM持ちだしたなコイツ。
かじかむ指先を口もとにそえて、長めに息を吐いた。感覚の薄れかけたそこを見つめて考える。
寒いのが身体ではないから、こんなに感覚が掴めないのかと。
本当に寒々しくて温度を求めているのは、俺を形作る身体ではない部分の、何処なのだろうかと。
白く塗装された壁に白い息がぶつかって、消える。
地上からそれなりの高さのある階から見渡せども、雲に覆われた空は、どこまでも太陽が見えない。
立ちっぱなしのかかとも、いい加減に痺れてきた。
今日は一週間で最も帰りの遅くなる七限授業だったこともあり、肩に担いだ鞄は教科書が詰まっていて
随分と重い。まあ、いつかの井上よりは軽いけれど。その場でくるりと二・三歩回り歩いて、気を紛らす。
たとえば今ハイそうですかと彼女の言うことに従って俺が帰宅しリビングのこたつにぬくぬくと籠もったと
して、この痺れや寒さは解消出来ない気がしたのだ。わがままを押し通さず、悪くはないが納得いかない、
どこか思惑から外れた結果。結果には必ず原因があって原因は見えている、そんな気が、したから。
「ところで――ここ、超寒い、です。」
状況打破。むしろ爆破。やせ我慢で口にしなかった一言を今更に放り投げる。
意地やプライドその他もろもろが呆気なく崩壊する。コンクリートの足元に重い鞄が落ちて鈍い音がして、
感覚の薄れた指先をドアノブにそえた時、意識せず、固く閉ざされた扉を開くおとぎばなしを思い出した。
かれた喉が息を吸う気配。電子機械で空気振動に再変換された言葉。きのう――と、前置きがあった。
『昨日、熱があって……お風呂入ってないんだよ。絶対汗くさいし、髪もぐちゃぐちゃだし』
「俺は三日間入らなかったことがあるぞ。で?」
『……パジャマも、よれてて、変な柄なんだから』
「見たことあるだろが。変なのはとっくに知ってる」
『……感染るってば。』
「よし、今日帰ったらうがい手洗いを入念にやろう」
口は無理に開けなくてもいいが。扉よ開け俺のため。次の台詞に『カギカッコ』が付いてませんように。
「…………黒崎くん。」
扉は開いた。開いただけ。
玄関先で向かい合って立つだけでは目は合わない。ほんの少しだけ顎を引いて、互いの身長差を調整。
井上の教えてくれたことは、果たして正しかった。一日のほとんどを横になって過ごさざるを得なかった
のか、普段から背筋にそってなだらかな流線形を描く長い髪の毛には、所々おかしなくせが付いている。
朝一番にあいさつをする時でもぱちりと大きく瞬く両の目は、ちょっと腫れぼったくなって潤みがちだ。
また本人いわくの汗くささとは少し違うが、押入れを覗いた時のような、密閉されて湿った空気のにおい。
大きな白いマスクで表情は半分ほど隠されているし、パジャマは前に見た時と同じ、やはり変な柄である。
上から下へ。眺めただけ。
やがて目を伏せた井上は、恐る恐る手を差し出した。
ここで何か言えと要求するほど状況を推し量れないでもない、その声は最初からかすれていたのだから。
課題プリントを手渡して、顔を合わせて見舞いたいとの自分の意に沿ってくれているらしい。不本意にも。
うつむいて、木の葉と同じに舞い落ちる言の葉。木枯しは―――遠からじ。
「……寒いなか待たせて、ごめんね。」
瞠目と――動揺。
風邪を引いておらずかれてもいない喉が小さく鳴る。息をのむ音。もしくは息を詰める音。さっきと似た。
『不本意』ではない「本意」の言葉に、かつて散々繰り返した戦いみたいには上手に反応出来なかった。
無機質の薄い機械越しにもどかしく声を発して、マスクの厚い布地越しにくぐもった声を聞いて。
自分の順番で何と返せばいいのか分からなくなる。俺の方から無理矢理に外に引っ張り出しておいて。
風邪を引いた、会いたいから、勝手に見舞いに来た。フルーツかごでもすりおろしりんごでものど飴でも
ない、色気もへったくれもない宿題を携えて来た。時節柄サンタクロースもドン引きするに違いない。
だから――まず謝りたいこの時に開かれたのが、煙突でなくて玄関扉で良かったと、俺は思うのだ。
「……寒いなか呼び出してごめん。治ったら謝らせてくれ。何でも聞くから。」
頭を下げて、上げる。
パジャマ姿の子どもはぽかんとした顔をしていた。間を置いて、厚い綿のマスクがもこもこと動いた。
「じゃあ……黒崎くんの家でコンくんと遊ぼうか。」
「…………可愛い振りして結構やるもんだな、井上」
「懐かしいCMだね。歌謡曲、の方が正しいかな?」
可笑しみを含んだ鼻声に苦笑いを返した。抱きしめると言えば他人に指をさして笑われそうな、
両肩に両腕をそっとのせた程度の稚拙な接触をする。自分達にはまだ、この程度がお似合いだ。
翌日、彼女の忠告通りに風邪で寝込む羽目になるとは夢にも思わないで。
それでも、最後の最後で俺は、何とかかんとか状況打開には至ったようだった。