くろさき、と石田が呼ぶ。おう、と返事すると、反響した石田のと俺の声が一緒くたになる。
湯気のたちこめる浴室、声のほうをむけばわずかに肩が触れた。水面が揺れる。
「僕は受けた厚意にけちをつけるつもりはない。
が……僕が君と一緒に風呂に入るという選択肢は、お父さんにとって唯一のものなのか?」
「……知らん。ただ、親父が全部知ってるんじゃねえかって事は否定出来ねー……」
大きくため息をつけば、隣も同じく。一般的な家庭の浴槽に二人浸かって、体育座りをもってしても
狭くないわけがない。望んでなった状態なら、それこそ俺だってけちをつける訳がないけれど。
「とりあえず、お前ん家の風呂が直るまでこれで勘弁してくれ」
俺の家の風呂場に二人押し込められるという嬉しさと厄介が半々のこの事態、
その始まりは、さぞ申し訳なさそうな石田の一言だった。
「風呂が壊れた?」
「……正確には浴室につながる水道管が、だ。トイレや台所の流し場は普通に使える」
そういう事で修理が来るまでの数日間だけ風呂を使わせてほしい、そう言ってきたのは今日の帰り際。
ただ石田がそう簡単に俺を頼るはずもなく、実際に壊れていることを知ったのは三日前なのだという。
「仕方なく近所の銭湯に行ってたら、そこも今日から改修工事で休業でね。
黒崎の家には迷惑だろうけど……どうにかならないかな、と思って」
「迷惑な訳あるか。そういう時は壊れた時に言えよ」
長く付き合っても小さな事に気を遣う石田に、少しばかりあきれてしまう。
奴に言わせれば親しき仲にも礼儀ありという理屈らしいが。ともかく晩だけ石田が家に来る事になり、
役に立てた事を少なからず喜んで俺は――今こうして、少なからず困惑する羽目になっていた。
石田と一緒に風呂に入る事はかまわないに決まっている。問題はそれを親父が提案した事だ。
何かにつけてくっつけようとすると言うか…家族に隠れてこそこそ付き合っているつもりはないが
勿論大っぴらにしている覚えもない。なのに、知っていると言わんばかりの態度。気になって仕方ない。
――ただ、同じ事を考え続けるのは苦手だ。
隣で俺以上に縮こまっている石田も見るにつけ居心地が悪そうで、俺はひとまず思考を放棄した。
いしだ、と呼ぶと眼鏡のない彼と目が合う。この距離なら、ぎりぎり顔が見えるくらいだろうか。
「背中、ながしてやろうか」
「は!?や、別にそんな」
「嫌?」
「……嫌では、ない」
「なら決定な」
こうなれば了承を取り付けたのも同じで、俺はさっさと湯から上がる。石田に構いたくなった、それだけだ。
制服や、戦うときのあの真っ白い服を身に着けた姿とは違い―――石田が肌を見せると、俺はものすごく
構いたくなる。仮に口に出したとして、あからさまに嫌な顔をされるだけなので言わないけれど。
抱く時は特に大事にしてやりたいと思うのと似ていた。本能的な欲から離れた処にある気持ち。
文句を言われないのをいいことに、うんと石鹸を泡立てて洗いにかかる。タイルの床に座り込んで
背中を丸めている石田は、俺に都合よく本当に構ってほしいように見えるから不思議だ。
天井の白い灯りに負けないくらいの白い肌は、皮肉な事にそのぶん身体の傷を目立たせていた。胸まで
続く肩口のそれも細い腕を貫いた穴の痕も。爪の先がひっかかる事がないように、慎重に手を滑らせる。
「気持ちいいか?」
「……気持ち悪くはない。」
訊けば返ってくる言葉に思わず苦笑する。態度が拒んでいないのは明らかなのに今更な返事。
気分を良くした俺はまた、ゆっくりと手を動かし始めた。
ひとしきり泡を洗い流すと、ずっとうつむいていた石田がようやくこちらに顔を向けた。頬が赤い。
「……ありがと」
「どういたしまして。」
可愛いという言葉はとりあえず飲み込んでおく。言ってしまったら今以上に表情に出てしまいそうだ。
「石田、先に髪洗っていいぞ」
「……そうだな、分かった」
満ち足りた気分で湯船に戻ろうとして、けれど後ろから腕をつかまれた。
「僕の前に、黒崎の頭洗ってやるからここ座れ」
――本当に、可愛いという他ない。
即座に頷いて腰を下ろすと、子どもっぽいな、とちょっとだけ笑われた。子どもっぽい笑い声で。
細い指先が、前髪からしたたる滴を軽く払う。こんなふうに石田に触れられるのは初めてで、
けれどとても心地良い。
「洗うのは仕方ねえにしても、髪が濡れるのあんま好きじゃねーんだよ」
「……ライオンと同じだ」
耳元で小さな笑い声がする。
「テレビで言ってた。大人のライオンは水をかぶるのを嫌がるんだって」
「動物と一緒かよ……けど、知らなかったな」
指先が髪に絡んで、くしゃくしゃと泡をたてられた。ひたいを流れ落ちる水滴が目に入らないように
視界を閉じれば、ひときわ強くなるシャンプーの匂い。時おり蛇口に留まりきれなくなった水滴が湯船に落ち
しんとした空間に透明な音を響かせる。髪をすく優しい手も、自分のためにそうしてくれる
人がいるということも。それが呼び起こすのは、たまらないまでの懐かしさ。
「……おふくろみてぇ、」
落ちた呟きに、ほんの一瞬だけ石田の手が止まる。
「……僕は、君のお母さんにはなれないよ」
髪をつまむ手は、またすぐに優しくなった。
「石田をおふくろの代わりにする訳じゃねえけど……なんとなく」
思いのままに言いきってから、自分でも何が言いたいのか分からなくなって唇を噛んだ。
石田もあきれているに違いない、そう考えていると、返ってきたのは意外に穏やかな声。
「――僕はさっき、師匠のこと思い出してた。」
背中を滑る優しい手も、自分のためにそうしてくれる人がいるということも。
それが呼び覚ますのは、くるおしいまでの懐かしさ。
「黒崎は短気で、むっつりしてて、少しも似ていないのに……すごく安心する。」
他の誰かを恨まなくても、思うだけで僕を保つ事が出来る。
どんなに気が張り詰めていても、黒崎に近くある間はどこかやすらかだ。
たとえば、俺が石田を大事にすること。そこに今はない人の面影を見つけて、自分をなぐさめているだけかもしれない。
自分がその人にしてあげられなかったことや返せなかった感謝を、その向こうにあらわす自己満足かもしれない。
――でも本当にそれだけなら、こんなにいとおしく思うだろうか。
「石田、ちょい目つむって」
「え?」
「ほら、」
「……何。別にいいけど」
目に付いたそれ、に手を伸ばして、俺は後ろを向いて
「――ん、」
「……いきなりしたら怒るだろ?だからこいつでお願い」
アヒルのマスコットのくちばしで、キスのお願い。
口から離れてからも、石田はそれをまじまじと見つめている。
「……決め付けるなよ。今日は怒るつもりはなかったのに」
今度はアヒルじゃなくて、石田からのちゃんとしたキス。朱に染まる頬を見て、
眼鏡のない石田には俺のその赤みは見えないのかと思うと、少しだけつまらなかった。
(俺も同じくらい緊張してます。)