MOON WALKER

「黒崎、ちゅうし……くしっ」

くろさき、ちゅーしよう――とか、予測変換。その時、あの凛とした口許から飛び出した
小さなくしゃみのせいで、石田が言おうとした一言は俺に届く前に中途半端にかき消えた。
 
 
朝から空気を湿らせて降り続いていた秋雨は、夕方五時のチャイムを見計らったように止んだ。
夜が更ける、その手前。ほとんどの店舗が消灯し、シャッターを下ろし始めた人けのない商店街を、
俺たちはふたりで歩いていた。石田曰く行きつけの、庶民派のお惣菜店からの帰り。閉店間ぎわのために
半額まで割り引かれたおかずは、しあわせなことに、値段と手に提げた重さがあまり釣り合っていない。
ところどころ照明の切れかけたアーケード街では、半月形に円みをおび、日光を通す半透明な屋根の
向こう側もまた明るくはなかった。空には月も星も飛行機も、明度のあるものは一点も見えはしない。

それでも、俺は石田の不意の動作に気を取られる。足を止めた動きにつられて、俺は左を向いたのだ。
そうしたら、石田は逆に空いた右手の方を向いた。つまりついつい、目があうわけで。

「黒崎、ちゅうし……くしっ」

普段からきりりと引き結ばれた唇が突然、ふぁ、とふやけた息を吐いてほどけたと思ったら、
ソラシド、歌う前にかくしゃみが出ていた。

すぐ目の前で、ぴんと伸びた背が一瞬おじぎみたいにちぢこまる。眼鏡にかかる黒い前髪の一房が揺れる。
このように俺が少しばかり見とれる隙にも、彼はもう姿勢を正し、今度こそはとまた歩き出し口を開いた。
一歩遅れて俺も歩き出すと『ちゅうしゅう』の、とはっきり言い直す呟きが落ちる。
……ややこしい、『ちゅうしよう』じゃなかったのかァ。

「中秋の名月みたいだけど、ろくに見えないね。」
「曇ってりゃ仕方ねえわな。夕方まで降ってたし」

鼻と、口がむずむずした。あごをつき上げて深く息を吸ったら、薄着をした身体の内側まで夜気が届く。
まっすぐに眺めた一本道の歩道のそこかしこには、多くの人の靴底が踏みしめただろう、砂や泥で濁る
水たまりが残っていた。そのひとつをやはり白い靴で踏みつける石田は、それに気付かないふうに喋る。

「夜も暑かったら、冷やしぜんざいにしようと思ってたけど。帰ったら、やっぱり温め直すだけで良いよ」
「……ん、その方がいっか。」

お互いに少し、声を落としていた。周りに人けのない静けさの中で、水たまりが水面を乱される音さえ
響いて聞こえそうな、薄暗闇だった。昼間とは正反対だ。狭い台所で押し合いへし合い、お月見だからと、
白玉ぜんざいを作った真昼とは。
外は雨降りで、戸も窓も閉め切っていた。小さな部屋の中には蒸気がこもっていたけれど、
よく煮込んだ小豆の濃い匂いは、ただ空気を甘やかした。

『何なら、これ冷やしてみる?意外に箸が進むんだ、その分つい食べ過ぎて胸やけすることもあるけど』
『食べ過ぎるお前とか想像出来ねえな。つうか胸やけする石田が見てみたい。是非どんぶりで食え』
『無理矢理僕に食べさせたら君も煮込んでやるから』
『鍋風呂かよ』
『風呂鍋だよ』

くだらない雰囲気のまま、気温だけ下ったようだ。結果的に今は寒くて、普通の温かいぜんざいを食べる
ことになりそうだけれど、未知のものに未練は残る。あの石田でさえ食べ過ぎることもある、涼ぜんざい。
普通に冷えた味を想像すればいいだけではあるが。食べ過ぎ胃もたれという嗜虐的な期待も上乗せして
妄想していたら、いち早く石田は見抜いてきた。

「それか、どうしても冷やしたのが良かったら、また今度家に来て。冷蔵庫で取っとくから、お楽しみに」
「ううん、いや、いっそ来年のお楽しみにするか」
「……なんでまた来年?」
「今日は温かいのが食いてえの、」

和ものから洋食までお手軽な惣菜の詰まった紙袋を握りなおすと、知らない間にかすかに湿気っていた。
来年だとか、考え慣れないことに頭をひねるからだ。
商店街の出口が近付いて、車の音が大きくなる。石田の家まではまだ遠いが、彼はあいも変わらず近い。
眼鏡を中指で軽く押し上げつくる怪訝な表情は、横目でぬすみ見た先にある。

めずらしく市販のおかずなんか買って、明日の朝はのんびりする気満々で、二人で夜に出歩いてみた。
月はないけどついている。一緒に夜遊びを楽しめる。夜闇は、石田以外見えなくなるから、わりと好きだ。
暗やむ今なら、ちゅーしようとか言えそう。

「石田、ちゅうし………、くしっ」

――予測変換したけれど。
その時くしゃみのせいで、俺が言おうとした一言は、天罰みたいに、彼に届く前に中途半端にかき消えた。
胸やけする石田を見てみたいと、ねがったせいかも。
ただ、隣を歩くその人は甘かった。足を止めたら、いつの間にかこちらにティッシュを差し出していた。

「お風呂、帰ってからもう一回入り直したら。うちに泊まって風邪でも引いたら、遊子ちゃん達に悪いし」
「……まじで?」
「風呂鍋でよければ」
「……お前やっぱ胸やけすればいいんじゃねえの」
「嗜虐趣味か君は」
「それが駄目ならちゅうしようぜ」
「……」

普段からきりりと引き結ばれた唇が、引きつった。笑えないと吐き捨てる彼の、その声色が不安定に傾く
理由を想像して、ちょっと自惚れてみたくもなる。今度はせっかく、何にも邪魔されずに言えたのだ。
相手にされなくても、それはこの先のお楽しみに。

そんな風に馴れあうのを見計らったように――視界がひらける。アーケード街を出て見える夜の空は、
かすんで曇る。広い交差点でも肌を刺す夜気は変わりないけれど、言葉に詰まる石田が煮詰まる小豆と同じ
くらい空気を甘やかしたことには、にやけずにいられなかった。