ハジメマシテ。

初めての夜は愛する人と。おはようやおやすみの挨拶のように、それはずっと僕の頭を離れずにある言葉。

付き合うとか振られたとか、やったとかやらないとか。教室や廊下の端々で耳にする密やかな噂のような、
その手の事に僕は興味が多い訳ではない。ただ興味が向かないからといって、無知であるという訳でも当然
ない。幼い恋愛もそれ以上も、経験ではなく知識としてなら頭の中にあった。

中学生の時は保健の授業という形式でそれなりに学び得たし、世俗的なもので言うなら耽美文学だって読んだ事はある。
あとはやはり教室にいて聞き取れる秘密めいた囁きから。ただそんなものに触れてさえ、
僕が覚えたのは高揚ではなく茫洋だったけれど。

君と出会ったのはつい半年ほど前、本当にそれまでは真剣な付き合いを前提としない肉体関係は不純だと
信じていて――だからこそ僕は少しも疑わなかった。いつか自分の前に、
一生を捧げてもいいと思える人が現れたら。僕はきっと彼女に優しくするだろう、と。
だけどふたを開けてみれば、それは真逆どころか想像の斜め上のそのまた裏側。これだから人生何があるか分からない。
いつか思い描いた彼女は女性ではなくそれまで僕が一方的に注目していた級友(男子)で、
しかも鳥肌が立つほど嫌悪していた死神(代行)でなし崩し的に普通常識内のお付き合いを始めて半年、

「俺、石田が好きだ。何つうか……やらしい意味も含めて。」

時は十一月六日。場所は僕の部屋、ついでに平日の黄昏時。僕の家までついてきた黒崎は早々に鞄から
何やら取り出してベッドのまわりを散々に散らかしてから、僕を押し倒し、一通りにしか
意味を取れない言葉を目を合わせて真っ直ぐにぶつけてくるのである。つくづく馬鹿だ、この野郎は。
ただでさえメリットなんてこれっぽっちもない交際で更にはずれくじを引こうというのだろうか。
キスでさえ僕は本気だった、でも、それも世間ではほんの戯れとして済まされるのに?

さて、僕の身体は一応押し倒されたという感じだが、押さえつけられている部分は手だけなので
実質蹴とばしさえすれば逃げられるという半端ぶり。僕が抵抗しない自信があるのか否かは知らないけど、
わずかに汗ばみはじめている手首を横目で一瞥し僕は彼に目を合わせて伝える。

「手、痛いんだけど」
「え!? あ、わっ悪ィ!!」

すごい勢いで身体が離れた。両手が自由になってやっと起き上がる事が出来て、当の黒崎はと言うと、
とんでもない事をしでかしたとばかりに青ざめている。
(自分から襲っといていまさら何をそんなにびくついているんだか。)
どこか投げやりな気持ちで僕は、目の前で勝手に正座して頬を赤くする黒崎と向かい合う。
窓から差す西日のせいもあるだろうが、青くなったり赤くなったり忙しない奴だ。とっくに知ってるけど。
さて、はずれを選ぶ言い分でも聞くとしようか。

「で何。きちんと筋道立ててもう一回説明して。」
「お、俺は石田が好きだ!」
「それは聞いたよ。つまり君の目的は、具体的に。」
「……やらしい事したい。石田に。いや石田と」

言い直すか。呆れた僕があからさまに軽蔑する目で見てみたら、黒崎はそれは情けない声を上げ
弁解を始めた。真面目なんだとか、相談しないのは悪かったとか。全く的外れな事ばかり。
ひたすら黙って聞いていたらついに顔を上げておく元気も失ったようで橙色はすっかり項垂れてしまう。
まるで捨て犬にでもかまっている気分だ。最初に僕にかまってくれたのは黒崎なのに。
……ぼんやりと考察していると、黒崎は突然それこそ吠えかかるように声を張り上げてきた。

「ちゃんと調べた! 一緒に気持ち良くなりてーから!」
「何を。」
「……ち、力抜く方法……とか、」
「……そう。」

ちょっと辺りを見回して、僕はようやく合点がいく。
――だからベッドの周りは、こんなにも彼の持ち込んだもので溢れているのだ。薄めのスポーツ飲料を
なみなみと注いだコップ。君の髪に似て淡い光をたたえている卓上灯。ほのかに日本茶の香りを漂わせる枕。
火を点け忘れたキャンドルポット。心身を安らげる効果があると一般的に言われている
それらは全部僕のため、今日のために用意された物。何を思いながらこの日を選んだのかなんて今更。

僕がそれまでこだわりしがみついていたものが、急に頼りないものとして感じられた。
組み敷かれたのは自分で、それで何の問題がある。二人の間で完結する感情に誰が口出し出来よう、
文句などこの口に無ければどこにも無い。
飲みものも照明も枕も僕の緊張を解すものだけど、何より僕を安心させるのは手首に残る温度だった。
それらを与えたのは黒崎なのに、今は彼のほうがよほど緊張している風に見える。彼は僕の彼女ではないけど、
ずっと思い描いていた事は形は違えど今も有効だ。最初で最後の相手となら、僕はきっと嬉しい。

「いいよ。」

応えると、弾かれたように黒崎は顔を上げる。
僕から近づいて制服のボタンを外しにかかると、君も僕に同じ事を始めるから鏡映しのようになる。
夕焼けの赤い射光に肌そのものが晒されていく様は、僕の胸をひどく締めつけ、鼓動を速めるばかり。

「さわって、黒崎」

黒崎は一瞬迷って、それから唇を押しつけてくれた。手首、頬、まぶた、口唇、首、鎖骨。時折汗を
舐め取って、血を嗅ぎつけ血の通うところを慎重になぞりながら。印した十六の点は僕の歳か、偶然か。
僕は左手を伸ばし、黒崎の首筋をたどり髪の生え際をかき分ける。そこは意外に柔らかだ。
ふかり、と指先を押し返すその感触を気に入って、僕は何度も指を滑らせてみる。その度に黒崎は
肩を震わせ、堪えきれないように固く眼をつむった。あのブラウンが見えなくて、さみしい。

「黒崎……気持ちい?」
「っ……ん……石田は。嫌じゃねえか……?」
「言っとくけど、僕はそんなに我慢強くないからね」

もしも嫌なら、今頃この寝床を飛び出しているよ。
少し幅の広い肩を抱き寄せ、耳元で囁きかける。そして余裕を含ませて小さく笑いかけると――ふと、胸がつかえる感覚。
勝手に全身の力が抜けて僕はベッドに沈んだ。黒崎が不安げな表情で上から覗きこんでくる。
未だ頼りなく視線をさまよわせる瞳を見るにつけ、自分の方が余裕を持っている、そう思うのに。
持ち込まれた品々が存外効いている証かもしれない。

身体は次第に神経の末端から熱を持ち強張っていく。息を吸うのも吐くのもくるしい。まばたきすら痛い。
それは初めて唇で触れあった日を思い起こさせた。眼を閉じていたくない。身体をこじ開けてしまいたい。
心臓を見せて君を思う速度を教えたい。
今度こそ黒崎はおそるおそる圧し掛かってきて、不器用に髪を梳きながらたどたどしく声を繋ぐ。

「なあ……な。俺さ、雨竜が好きだ。
俺、結構自分の名前気に入ってっけど――俺のよりずっとずっと、雨竜、て呼ぶ方が幸せ」

「………ばかじゃないの、一護。」

また、顔が見える。笑いながら泣くのは馬鹿だ。こんなつまらない名前に涙を落す君も、
こんなゆるぎない愛情に涙を溢す僕も。初めて名前で呼びあって舞い上がってる僕達も。
今日からもう一度始めたい。今日を覚えていたいと強く思う。今日という日に名をつけて、
数字では表せない特別な意味をもしも添えられたなら。

(はじめまして。)

それは誰かと関係を結ぶための魔法の言葉。明日は今日よりも仲良くなりたくて、最初のこの夜、
僕は出来るだけ君に向けて笑っていようと決めた。