眼鏡は好きだ。一枚のレンズは透明な盾となり、僕と僕以外の世界の間に境界線を引いてくれる。
今日もせっせと眼鏡を拭く。眼鏡は好きだが、拭いている時間はいまいちだ。
盾が無いためにたちまちに指先は空気ごと潤み、どこまで僕の身体なのかの距離感がつかめない。
時間をかけたいという前に勝手に時間がかかる。昼下がりの暖かい部屋にいながら、
僕と黒崎は別々の場所にでも立っている気分だった。
僕はひたすら手元を見つめて、ただ彼はどこを見ているのか知らない。
だけどそうしていつまでも眼鏡にかまっていると、黒崎の眉間のしわがぐっと深くなるのは知っている。
おそらくは、もどかしいまでに宙を泳ぐ視線に気づかないふりをして。手の中でゆるやかに弧を描く
澄んだ曲面に塵ひとつ残すまいと慎重に手を動かすその時、決まって彼は僕に何か言葉をかけたがった。
「その眼鏡ケース、ずいぶん年季がいってんな」
僕は手を止めずに返す。
「師匠のおさがりだからね。」
往復で終わる会話も悪くない。
持っているのは、お互い様だ。黒崎の家の玄関には、誰も使わない色褪せた雨傘が隅に立てかけてある。
黒崎が捨てるなと家族に言ったそうだから、やはり、彼のものなのだろう。
師匠は好き。眼鏡も好き。だから眼鏡を外そうとする彼は嫌い。
黒崎がいつの間にか正面にいた。盾を取り上げられて、大きな手に頬を包まれる。
手はごつごつと骨張っていたけれど、触れるやり方は柔らかいものとして感じる。
からめとるような視線にあてられ、逃げ場もないふたりはじりじりと接近するしかない。
眼鏡がないのは、駄目だ。明るい髪の色も深い瞳の色もぼやけてしまう。
大して働かない目の代わりに触覚が張り切るから接している肌が熱くて仕方ない。火傷しそうな。
少し痛くて、くせになる。君は僕の目の届くところにいればいいんだ、と親の言いつけみたいにも思う。
いつも目の届くところにいて、僕の視界を遮って欲しい。
「……君が僕の眼鏡だったらよかったのに。」