初めて彼女をみた時、手の届かない場所にいる人みたいだと思った。
僕がそんな陳腐な感想を抱いたのは、黒崎の家に泊まるよう初めて誘いを受けた晩。
家に誰もいないからと、やはり陳腐な誘いに乗った日のこと。
静まり返った家の中で一緒に簡単な夕食を作って、惰性で点けたテレビを眺めつつ箸と口を動かして。
ふと会話が途切れた瞬間に、この部屋に来てからずっと気になっていたことに意識が行く。
――壁の、写真。
何倍にも大きく引き伸ばして壁に貼ってある写真はそれ自体やや色あせているものの、
枠の中に写っている被写体は決して古めかしいものではなかった。
まるでカメラのレンズを意識せず微笑むその女性は、特別顔の造形を言う前にただ僕の目を釘付ける。
手の届かない場所にいる人みたいだと思ったから。疑問も含めて、冗談半分で訊いてみることにした。
「あの写真、」
君の好みの女性なの、なんて茶化そうと。
それは事実として間違っていなかったが、声にして続ける前に、黒崎は画面の方を向いたまま呟いた。
「あぁ、お袋。親父が貼ってんだよ」
食卓の空気だけしんとなって、司会者の馬鹿笑いが耳につく。
僕の驚きは大きかった。冗談半分で訊いただけに。予想だにしない答えに返事も忘れたけれど、黒崎は
それを別段気にもせずポテトサラダの皿へ箸をやる。知らず僕も真似をしていた。黒崎の力作だった。
(『変なこと訊いて、ごめんなさい。』)
咀嚼する内にそんな定型句を思いだす。
ドラマとか小説だったら、多分ここら辺のシーンでしおらしく謝るところなのだろうけど、僕はしなかった。
(……死、が変なことだとは考えない。)
人が死ぬのはありふれ過ぎている。今日も間違いなくどこかの場所で黒と白の幕が下りていて、
その幕や棺や花さえ与えられないで終わる人も日常茶飯事。だからって僕がそれに慣れているのでもないけれど。
騒がしい箱の中で、しねと言って誰か笑って、その傍らでせっせと口に運ぶポテトサラダは美味しい。
何の気なしに見やった黒崎の指に巻かれた絆創膏はつい先程ボウルを洗ったせいで剥がれかけていて、
救急箱はどこに置いているんだろう、と僕は考えた。
あと一時間程で今日が昨日になる頃。食卓を綺麗に片づけて全部の電気も消して、それぞれがお風呂に
入って着替えてから、二階の黒崎の部屋へと上がる。彼が長風呂なのは意外だった。普段は家族がいるけど
たまには時間をかけて浸かりたいのかもしれない。
白く人工的な天井の明かりのせいか、部屋は昼間と全く違った様相だ。
今夜僕がここにいるのは家族に内緒らしく余分の布団はないので、黒崎は黙々と
ベッドを整えている。医者の手術着にも似た青いパジャマ姿の背中に、僕は声をかけてみた。
「真咲さん、て言うんだね。」
「……ん。」
曖昧な肯定は医者には似ても似つかない。振り返らずシーツのしわを伸ばす動作を見ていると、
一瞬手の動きが止まる。お風呂上がりに貼り替えた絆創膏を気にする黒崎に、僕はまた声をかけてみた。
「花みたいなひとだ、真咲さん。」
「……石田。寝惚けてる?」
振り向いた姿は、医者ではなくてただの同い年。僕が黒崎のお母さんを名前で呼ぶのは居心地が悪い、
なんて低い声でぼやくから。だから僕はつい、彼が義理の息子になったらどんなものかと突拍子もない
ことを考えた。いちごくん、とか呼んだりするのか。すると、いちごくんは怪訝な顔で僕の目の前に来る。
むゅ・と両のほっぺたをつままれた。
「……くょひゃき」
「眠たそうだな。寝るか」
黒崎は僕から手を離してそっぽを向く。たかが指先、たかだか数秒触れただけの親指と人差し指の温度が
恋しい。自分で同じようにそこをつまんでみたら再現するどころか冷たさに目が覚めたので後悔した。
黒崎はさっさとベッドに上がって布団をかぶった。
そこから顔を出して手まねきして見せるので、僕は部屋の電気を消してから眼鏡を外して、従う。
ただ二人で並ぶのは幅からして難しい。仰向けに寝るのを諦めて向かい合わせになっても
表情は見えなくて、視覚以外の感覚が鋭くなる。枕元に置いてある目覚まし時計の針の進む音。
洗いたてというか、清潔感のある石鹸の匂い。身体とシーツの隙間に少しずつこもる、体温。
その体温が急に直に頬に触れたりするものだから、強制的に視覚も暗闇に慣らされてしまった。
「いしだ」
至近距離で目が合った。武骨な手が僕に届いて、傷のある指が傷のない頬を手当てのように撫でる。
肌が部分的に滑らかなのは多分絆創膏のテープ地のせいだ、
頭の片隅でそうやってぼんやりと推量してされるがままになっていると、黒崎が口を開く。
「おやすみ、」
少しかすれた声で告げられた。眠ってもまた明日には起きるんだろうと、
強く問い詰めて確かめるかのような言葉。眠りにつく前に交わす遠い朝までのひと時の別れ。
「……おやすみ。」
応えると黒崎は何も言わず手を引いた。だから今度は、僕から彼の頬に手のひらを重ねる。
瞳の茶色は見難いけれど目を瞠ったのは分かって、彼がしてくれたように頬を撫でる。
「おやすみなさい。」
届いた手で彼に目隠しをして、唇を触れあわせたら、僕はようやく思い知る。
幸いなことに、僕らはまだお互い手の届く場所にいるらしかった。