幸の鳥

心というものは、もしかすると心臓と同じで胸の辺りにあるのかもしれないとよく言われるけれど。
それは、大事なものを全部同じひとつの引き出しにしまっておきたくなる理由と同じだろうか。
結局安心したいだけだ、と俺は思う。在りかさえ忘れなければ勝手に失くならないし。
(……でもそれなら同じ理由で、心は本当は腹に潜んでるんだ、って思ったっていいはず。)
腹を割って話すとか腹が黒いとか言い回すのは、そこに本心があると昔の人が考えたからだろう。
腹もまたきっと大事なものをいれておくための場所。例えば――こども、とか。

聞こえた小さなくしゃみで、俺は目が覚めた。よく晴れた冬の朝、隣から届くは規則正しい呼吸。
降り注ぐ陽はただ眩しくて、シーツの海は微かにあたたかい。枕元の時計の針は正午を指している。
一つあくびをすると、また少し頭がすっきりする。すぐ横を向けば、見慣れた寝顔があった。

ベッドのそばには火の消えた旧式のストーブ。燃料費がもったいないと部屋に暖房器具を出すのを渋っていた彼だが、
昨夜は『身体を壊してからじゃ遅い』と言い諭す俺にやっと頷いてくれた訳で。
昨夜は普段より暖かい部屋で過ごし、眠りにつき、結果こんな時間まで熟睡してしまったらしい。
(つか、布団脱いでるし)
眠る前に着込んだ布団に毛布、シーツも暖かさのあまり却って自分が蹴っとばしたように乱れている。

ふと先程のくしゃみを思いだして、俺はゆっくりと身体を起こし、見渡してみた。
すると石田の半身は空気にさらされていて、さらに寝間着のすそからはわずかに腹が覗いている。
眠ったままの彼が、むずかるように鼻をすすった。

「……何やってんだよ、」

幼い仕草を見て思わず吹きだす。普段はきちんとしていても、無意識下の行動には逆らえないらしい。
甘え下手な性格だと知っているだけ、そんな無防備な姿を自分の前にさらしてくれることが嬉しかった。
しかし、このまま放っておく訳にもいくまい。布団をかけるか、または時間が時間だから、
いっそ起こして格好を整えてやるか。迷って、俺は三番目の選択肢を選んだ。

「石田、起きて。ほら、もう昼だって」
「……ん、ん……?」

髪をすいて呼べば、不明瞭な声が返ってくる。
まぶたの向こうの澄んだ眼が、すぐに自分を映した。それをずっと見つめていたいのをぐっと我慢して、
俺は上半身を起こし、腹に手を伸ばした。つい、と筋にそってなぞると石田が身じろぐ。

「ん、あ……ぁっ……?」
「起ーきーろー。ほれ、お目覚めだぞ」

まだ半分眠っているのか、ため息の延長のような意味のない声ばかりが静かな部屋に響く。
耳に心地よいそれを聞きたくて、俺は調子に乗って石田の腹に触る。
でも、つねったりとか、意地悪で痛いのは駄目だ。なでて、さするだけ。

「あっ、や……も……ッあほくろさき! 脱がすな!」
「痛て! ちょ、腹出して寝てたのはお前だろ!?」

今度こそ完全に眠りから覚醒したらしい石田が、容赦なく枕をぶつけてきた。綿製の枕なのに、それなりに
腕力があるせいでかなり痛い。けれど、自分から腹を出して寝ていたという件を聞いてか途端に大人しくなる。
起き上がる気力がそがれたのか、完全に布団から出ることはせずに沈黙して……あ、顔が赤くなった。

「ま、それだけ元気がありゃ風邪も引かねえわな」
「うるさい! お腹なでまわして喜ぶ変態が言うな!」

ただ可笑しくて笑うと、石田は悔しげに唇をかむ。自分もからかい過ぎたかとは思い、耳元に近づいて
ごめん・とささやいて離れる。と、今度は眉を下げ困り顔になり、僕を振り回すなと呟いた。
そうして顔を背ける原因が怒りではないと量り、俺は、もうきちんと整えられた腰もとを見やる。

触れても、または見るだけでも、分かる。石田の腹はとても薄い。何も入ってないみたいに。
そこが空っぽだととても冷えて寒いのを知っている。だから夜になったら俺はその内側を満たそうとする。
彼の好きな白い色を、彼が欲しがる分だけ。

「……触っていいか?」

訊くと、背けたままの肩が大きく揺れた。ゆるやかに振り向いた顔は困っても怒ってもなくて、
でも無表情というのでもない。やや間をおいて、端正な顔が困ったふうに綻ぶ。俺は応える、ことにした。

掛け布団を引き寄せてベッドの足もとに追いやり、石田の寝間着のすそを摘みあげると、
色の白い腹が目の前にさらされる。まどろっこしいくらい時間をかけて俺は手を載せる。
あまり柔らかくはない肌だけれど、ひどく滑らかだ。呼吸と一緒に上下するなだらかな傾きに指を滑らせ、
やがて降りきったところの小さなくぼみに、俺は爪の先を埋めてみる。ひくりと震える、身体反応。

昔々母親と繋がっていた痕跡が、そこにあった。顔を近づける。まわりに比べて少しへこんだそこを今度は
舌の先でつついてやると、石田はやっと声を出した。やだ、くすぐったいなんて、全然嫌がりもしていない声で言う。
いつもと同じだ。嫌、を微塵も含まない声で好き、と言ってくれる。好いてくれるのだ、自分を。
嬉しいことだ。言葉を意味のその通りに伝えてくれること。腹の中の心をあるままに伝えてくれること。
たとえ俺と石田の間に目に見えるものがなくても。嬉しいことは連鎖して思い出す。

いつかの真夜中、内緒話みたいに彼が俺に教えてくれた事があった。

「僕は腹に隠しごとをしてる。でもそれは、ずっとここにあるんだ。」
(僕と君とその間にある三番目の選択肢。二人で選んだ、三番目のかたち。)
「ここで育てても、いいでしょう?」

いつかの真夜中、俺の眼をまっすぐに見て、彼は、やさしく笑った。
生まれる事は幸せで、生まれない事は不幸せじゃなくて、ただ、そう言いきった石田に、気高いものを感じた。

シーツの海はもう穏やかに凪いでいる。日はさっきより傾いて明るい午後を作り上げる。
窓の外の空は透いてどこにも雲が見つからない。遠い空に、鳥の影が見えた。
あらかた触れた後で、俺は石田を抱き寄せた。お腹じゃなくて、石田の全部に触れたくなった。

「俺は石田のこと、何番目に好きだと思う?」
「……さあ、ね。」
「順番がつかねえほど好きなんだって言ったら?」
「ありがとう、って言おうかな。」

嬉しそうだ。あの真夜中と同じに笑っているのが分かる。
結局安心したいだけだ、とも俺はどこかで思う。石田が俺を思うように、俺が石田を思う気持ちが
俺の腹の中にあるなら、かっさばいてみたいとも。
だけど確かめる必要はなかった。見えなくても、あると言えばそこにあるもので。
在りかさえ忘れなければ勝手に失くならないし。腹はきっと大事なものをいれておくための場所。
例えばこどもとか、こころとか、たまに企みなんか。何でも入れていいし、何を隠しておいてもいいけど。

「……僕も同じだよ、順番。」

時々は、それが古びてほこりをかぶってしまう前に、そっと取り出して、俺に伝えてほしいんだよ。