ツバメクラブ/ツバメクラブ2/ハンドメイドクラブ

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ツバメクラブ

ずっと前からそう。生まれた時からそうだった。
破面の世界にいる以上、他者に妥協して生きるなんて選択肢はない。あたしは
あたしをいかに見栄えよく飾るかにしか興味はなく、それで困ったり生活に支障を来すことはない。
強いものが長生きするのが唯一の真理なら、必ず自分はそれに当てはまって
ついでに装飾趣味を楽しめたら十分だと思う。他に何もいらないし、欲しがらない。
なんて慎ましい生きものなんだろう。生まれた時から知っていて、何の苦もなく来たけれど。

「そうだ、俺のために綺麗になってみないか。ああ一応立場なら弁えてるつもりだ、
俺は相手の力を推し量ることが得意でね。君、じきに十刃に上がれるってあたりだろう。」

慎ましさの欠片もない弁舌屋をうまくかわす方法を知らなかったことで、あの時は確かに後悔したのだ。

たくさんの同胞を手にかける。仮面を奪って、削って、それで髪飾りを作る。
あたしをいかに見栄えよく飾るか興味本意の行動は、あの男と出会ってからどうしてかやめてしまった。
あたしは己の容姿を美しいものだと思っている。そうなるために興味を持って行動に移して来たからだ。
思っているけれど誰にも言ったことはない。それに関して他者にほめられる必要性など感じないからだ。

けれども目の前の姿見に映るそいつは、この持論のまるっきり反対をいくらしい。白い椅子に腰かける
あたしの真後ろに立ち、流れるような動作でこの髪に自前の鋏を入れる、長髪の男――フィンドール。
たとえ戦いの場でさえ、手も口も同じだけ動かすそのおしゃべりは虚夜宮でも(ごく一部で)有名だった。
彼自身はつゆほども噂を知らないだろう、従属官にしたくない格下破面ランキングの上位という名目で。
解放状態の霊圧は、後ろ髪をまとめて一つに留め剥き出しになった首筋をくすぐるくらい穏やかだ。

フィンドールは謳う。鋏と化した左手で髪の一房をすくい上げ、しゃきん・楽しげに切り刻み。
黒曜の髪と乳白の爪のコントラストは、夜更かしして二人遊んだオセロ盤のように。

「実に美しい、チルッチ・サンダーウィッチ。
今日が祝いごととは言い難いが、美しく在ることに日柄というものは関係ないからな。“不幸な日付けに
限ってきらびやかに着飾ってはいけない”等という人間の観念はどうも俺には理解しかねるよ。」

「あああ、分かった、もう分かったってば! ほめ言葉でも馬鹿の一つ覚えみたいに連呼されたら
ありがたみも薄れるもんなの、だいたい何であんたが生意気にも人間の観念なんて知ってんの?」

「そうだな、生意気に……いや、そっちじゃない。秘密だ、近しい仲であるほど多少は秘密がないと
倦怠してしまう。――ところで今度の髪型はどうする、また上の方で左右対称にくくるのか?」

「……ほんっと、面倒くさい! 好きにすれば、」
「≪正解≫。君にはそれがよく似合う」

フィンドールは笑う。本来はつめたく切り離すはずの鋏で、現実にやさしく切り刻む手は止まらない。
次から次へ、ほめて千切る言葉は石の床にまい落ちる髪に似ている。
鏡の中、やわらかく笑みの弧を描く口もとを見て不思議とこちらまでそれと似た気分になった。
今日は、髪を切り飾り立てるのにはふさわしくない『不幸』な日付けなのに。
(今日、あたしは“十刃落ち”になった。)
数字は桁が増えたのに心は少しだけ浮く。
首の上に乗っかる頭がどんどん軽くなっていくのが気持ちよくて、あたしは目を閉じて音を聞き始める。

真っ白な彼のこの宮を訪れたのは本当に久しぶりだ。かつてあたしが十刃に選ばれてからは顔を合わせる
機会が全くなくなって、ずいぶんと退屈な思いをさせられたものだ。せめてもと探査神経を働かせて
みても、距離空間が開きすぎていると生死くらいしか判らずに時間は過ぎるだけ。無為な時間だった。
昨日は生きていた。今日も生きてる。明日はどうか? しぶとい奴と鼻で笑っても返事はなく、
十位の存在のひとりとして何処までも届く鉄の羽を持ってはいても生身の手は誰にも届かない。

いつか十刃になれたら一番最初に言うと決めていた。

『貴方、あたしの従属官になりなさい。』

彼を繋ぎとめておく一つの方法だと信じていたのだ。死線をくぐり抜けて手に入れた五番の位置はなかなか
悪くない。ここに至るまでの経緯は生来やってきたことと何も変わらない。たくさんの同胞を手にかける。
仮面を奪って、倒して、力の証明にする。あの男と出会ってどうしてか始めてしまったこと。
しかしフィンドールはゆっくりと首を横に振った。顔の右半分をおおう仮面に隠されていない左目は、
事実、身長差のあるあたしを見下ろしていながら、見上げているようでもあった。

『≪不正解≫。五番より二番の命令の方が拘束力がある。』

不正解。聞き慣れない台詞が――というより初めて聞く台詞が形の整った唇から落ちる。
巧みな腹話術でも見ている風で、かすかに宮に響く澄んだ声と口の動きはどこか噛み合わない。
それから普段の不敵な笑みの代わりに彼はほんの少し苦笑して。

『物好きも居たものだよ、
嫌味な振る舞いで誰からも気に入られなければ、俺は君以外の誰にも従属せずに済むと思ったのにな。
……申し訳ありませんがそれは不可能です、第五十刃、チルッチ・サンダーウィッチ様。
――バラガン陛下の従属官のひとりとして』

ああ。ためいき。生まれて初めて、すっからかんだ。
努力したら美しくも強くもなれたが、最後の最後で器は満ちるのを待ってくれない。ただ、同じように
努力をしたらしい弁舌屋が、あの時あたしのために饒舌でいてくれたことは満足するほど理解出来た。

「……ねえ、そう言えばあんたは髪を切らないの?」

肩越しに顔を覗かせるから頬が触れあうほど近づく。そうして近い距離を保ったまま首を横に振ると、一瞬
触れたやわらかい金髪が、あわい感触を残していく。フィンドールは鋏の両手を下げてふと目を伏せた。

「俺はもとから伸びない性質でな。まあ切りようもないから別に困りはしないさ―――髪の出来は?」
「そうなの。蟹の鋏が再生出来ないのと同じかしら。じゃあもし一度でも切ったらずっと短いのかもね。
――≪不・正解≫。」

途端、信じられないといった表情が正面の鏡に映る。目があった。やっと目があった。身長差がなくなる。
(今日、あたしは“十刃落ち”になった。)
敬語をつかって見上げるのでもなく、従属官になれと見下げるのでもなく、ようやく同じ視点に立てたのだ。

「いつでも中途半端に決まってるじゃない、髪は必ず伸びるんだから。単に綺麗になる過程でしょう。
あんたあたしがこれくらいで満足すると思ってんの?―――だから貴方、一生あたしの髪を切りなさい。」

「……それは、綺麗になるのは俺のためにか?」
「≪正解≫。」
「……発音が微妙に違うぞ、俺が正しく教えてや」
「うるさい掻っ切るわよ」
「…………好きにしろ、」

笑う、謳う。お互い好きにする。好きだからほめる。オセロの代わりに黒い髪に白い鋏を通して遊ぶ。
黒曜と乳白とを混ぜたら偶然こくはくになるらしい。頭に圧し掛かる質量が減って身体が軽くなる。
あああ、髪を切ってもらえる幸せな今日を不幸な日付けだなんて呼べるわけがないのに。

ツバメクラブ2

任務を終えて帰路につく。とは言え今日の任務というのは、
俺が従属するあの爺さんの肩もみやら腰もみエステで、およそ充実した一日だったとは言い難い。
アビラマが巨大な双翼で涼やかに仰ぐ横で俺は何度も極上の紅茶を淹れなければならず、
ジオとニルゲは節々の凝り解しに精を出し、シャルロッテに至っては「視覚も癒さないとネ☆」と
勝手にベリーダンスを披露し始める始末。これでも部下総出の仕事で、俺は身の上を悲観した。
が、そうして過ぎていく毎日にほとほと嫌気が差したのだとか、そんな事情でもなく。

面白いとつまらないは密接に関係している――
自分がやりたいことというのは、骨の折れる義務に多少は制約されていないと充実感を得にくいものだ。
たとえば毎日遊びにだけ時間を費やせば、面白かったはずの遊戯もすぐにつまらなくなるに違いない。
つまり、ひと通り悲観したら、もう楽観してもいい。
俺が今日も彼女の宮へ足軽く通えるというのは、多分人遣いの荒い上司や同僚のおかげでもあるのだ。

「なーんか、退屈なのよねえ……」

ふわりと昇る紅茶の湯気の向こうに、物憂げな瞳。
燻し銀のフォークでカルボナーラを器用に絡めとり、食卓の向かいに座るチルッチは呟いた。
所在なく皿の中身をかき混ぜる指先には見慣れぬ色のマニキュアが塗られている。
先程誉めたら『一昨日からこの色よ』と冷えきった目で睨まれたのはさておいて。

今は怒りよりも退屈のほうが勝っているようだ。
絡めて、ため息をつく口に運んで、音も立てずに咀嚼してから、紅茶のカップへ手を伸ばすその繰り返し。
俺は紅茶が一連の動作の一区切りであることに目をつけた、退屈を終わらせるのは自分の役目なのだ。

「……退屈も仕方ない、従属官である以上俺はあまり君に構ってやれないからな。前向きになれよ。」
「あのね、毎日三食の美味しいご飯しか生きる楽しみがない気持ちがあんたに分かる?」
「上等じゃないか。あいにく俺に手料理を振舞ってくれる奇特な同胞は居ないんでね、
今日も夕食が手製の握り飯ふたつという憂き目にあってる、」

カルボナーラはチルッチの前にしか用意されてない。十刃落ちとなった今でも元5番という地位は
そこそこ効力のあるものらしく、彼女曰く格下の破面に頼んで食事を作ってもらっているそうだ。
材料の出所は全く謎だが、その完璧な出来からどんな風に“頼んで”いるかは容易に想像がついた。

炒めたベーコンと黒胡椒の香ばしさが食欲をそそる。
惜しみなく投じたチーズと生クリームのソース、太陽みたいなたまご色のカルボナーラスパゲッティ。
それは俺には、彼女の食事作法のためでもあるだろうけれど、とても上品なものに見えた。同じ皿にのせて
いるのに品目の違いだけでこうも見栄えが変わるものなのかと思うと、複雑だ。だから俺は『夕食を作って
くれる』のくだりにいくばくかの期待とアクセントを添えて言ってみたものの、彼女の表情は変わらない。

「そう? おにぎりってあんたに似合うと思うわよ、言わばキーアイテムね。おとぎ話にもあるじゃない」
「……俺は知らない。おとぎ話だと?」
「うん、弱っちいカニが猿におにぎりを横取りされて闘争の末にぽっくりいっちゃう話」
「それキーアイテムって言うか死因だよね!!?」

俺は身の上を悲観した。それから、作り話の世界で猿に敗北を喫した、哀れなる同族には大いに同情を。
チルッチはお構いなしで、白いソースのついた唇をちろ、と舐めてはまたフォークをあやつり始めた。
俺は自分のぶんの紅茶をひと息に飲みほしてから、聞いてもらえなくていいとさえ思って言った。

「別にいいさ、君が独り占めしたいと欲するものを俺が横取りする権利はないからな。」

俺はひとまず握り飯を皿から取って噛みくだく。過大評価でも、百点満点中二十点といったあたり。

(……あれが十刃になる前の晩だったか、とても美味いそれを食った覚えがあるんだが。)
貰った手製のそれと比べて二十点ということ。どこまで齧っても塩味のそれに気を取られて、俺は
彼女が急につまらなそうな顔になったのを見過ごす。何も知らないまま、ため息をつくと。
マニキュアに綺麗に飾られた指が、くるくるくる・カルボナーラをフォークにたっぷりと絡めとって。
深いため息をついてすぐ、半開きの口に勢いよく突っ込まれた。

「…………。…………ひぅっひ?」

名前は呼べなかった。不可抗力だ。下手をしたら舌に刺さっていたんじゃないかとか、
このまま噛みくだき食べていいんだろうかとか、もしかしてこういうのを間接キスと呼ぶのかとか。
俺はともかく歯と顎を動かし、濃厚なチーズの風味を十分に味わってから一口を飲みこむ。一瞬で骨組みを
崩されすぐに状況を推し量れなくなった思考を何とかめぐらせて。やっとで出てきた陳腐な一言を告げた。

「……ごちそうさま。」
「まだ食べてもない男が言う?」

すぐさま切り返しが来る。燕返しという反撃である。
自分なりに意図を察して、俺は返事することにした。作り話だと猿には負けたが燕に負ける気は更々ない。

「……明日はこの宮から出勤するか? お望み通り。」
「さあ―――貴方の部屋でなら、おしゃべりに付きあってあげてもいいけど。朝までずっとね。」

フォークが皿に置かれ、かすかに金属的な音が響く。
それが嵐の前の静けさにも似た警鐘のようだと思って真正面を見ると、チルッチは意味深長にほほ笑む。

(『いただきます。』……は、言えそうもないが。)

艶やかに吊りあがる口角を見つめて悩ませられる。
と、俺は今日初めてそれに気が付いた。見慣れぬ色に―――視線を奪われて。

「唇、綺麗だな。新色の口紅か?」

「……一昨日からこの色よ?」

ハンドメイドクラブ

「ね、前から思ってたんだけど。あんたの刀剣解放のカッコって手作りなの?」

仕事もなく、体感時間の歩みも亀に劣る昼下がり。あまりに唐突で無遠慮なチルッチの質問に、俺は、
持っていた紅茶のカップを怒りの衝動で握り潰さなかったことについて自分をほめてやりたいと思った。

解放にこそ至らないものの、ほとんど制御することをやめた霊圧が、決して広くはない宮全体を震わせる。
髪が逆立つほどのそれを自分の身体でも感じながら、俺は勢いにまかせて怒鳴った。

「失礼な、親しき仲にも礼儀ありということわざを君は知らないのか!?
いいや、問題はそこじゃない――俺たち破面の帰刃が手作りな訳があるか!」
「だからわざわざ『あんたの』刀剣解放って限定したじゃない。何も破面全てそうだとは言わないわよ」
「だから何故俺だけを例外にする!!」

声量を最大にしての主張もチルッチはそっぽを向いて聞き流し、何処吹く風といった様子だ。
そうして、頭の高い位置でやわらかく巻いた黒髪の束の片方を人差し指と薬指でもてあそびながら、
聞き分けのない子どもに相手するような目をこちらに向けて呟いた。

「あらら、急に声が大きくなっちゃって。図星?」

わざとらしく作ったピースサインをはさみのように動かしてみせて、愉快そうな表情で彼女は続ける。

「もしかしたら、あたしみたいな破面に憧れた虚が自前の衣装でコスプレしてるのかもしれないわね。
左手は手の甲に鋏が付いてるだけだし、右の肩なんかどう見てもワイヤーで吊ってるっぽいし……でしょ?」

ちょきんちょきん、細い指が挑発的に動く。
解放形の白い鋏をひそかに誇りに思っているだけに、毒々しい色の爪で真似されるのがひどく腹立たしい。
ただ大声を指摘されたあとで大声を出す余裕もなく、俺は口調の厳しさだけは上乗せして言い放つ。

「何が『でしょ?』だ、いい加減にしろ!」

チルッチは悪びれもしないでにやにや笑うばかり。駄目だ、完全になめられている。
何か上手い返し方はないものだろうかとせめて睨みつけて、頭を働かせていると一つ思い当たった。

(そう言えば三番の従属官が何か言ってたな――)
三番本人は遠目にしかまみえたことはないが、表面上心の機微が分かりにくい鉄仮面の女だと聞く。
しかしその従属官達は、主人と真逆でとてもお喋りなのだ。

黙ってさえいればそこそこ見映えする容姿なのに、彼女達は暇があれば騒々しく喧嘩を繰り広げていた。
あまりに所構わずやるものだから偶然立ち聞きすることもしばしばあって、その台詞の一つを思い出す。
これは使えるかもしれないと一呼吸置いて。言いたい放題のチルッチにせめて一矢報いたい。
怒鳴り声に畏縮するような女ではないから、俺は半分言い逃げのつもりでそっぽを向いてぼそりと呟いた。

「君の方こそいい歳してヨーヨーみたいな凶器を振り回すとか……スケバン刑事のコスプレだったりしてな」

瞬間――感じる霊圧が一気に跳ねあがって驚いた。平常心を取りつくろい、とがる霊圧の発生源を横目で
見やると、そこには柳眉をつりあげる元・五番の姿。さっきまでの余裕が消え去った表情のチルッチは、
ただでさえマスカラで強調されている大きな目をかっと開いて、きんきん声で叫んだ。

「あんた、もういっぺん言ってみなさいよ!?」

おお、ちょっとした感動。良い気分が盛り返して落ち着いていく霊圧をとっさにとがらせる。
なめられっぱなしという訳にいかない。正直ここまで食いついてくれると思っていないから、
調子に乗って俺はもう一矢報いてみることにした。わざと大げさな動作で肩をすくめて、鼻で笑う。

「はっ、聞こえなかったか?女番長だと言ったんだ、そういう他人を恫喝する言葉遣いも確たる証拠だよ」
「ンな……っ!!?」

いよいよ楽しくなってきてしまった気がする。
一言の反論も出ない唇は、暗い色の口紅をつけているせいか怒りではなく寒さで震えているように見えた。
大体、今までもチルッチには散々言われてきたのだ。事ある毎にやれカニ鍋だのカニかまだのと酷いから、
一度悔し紛れにツバメの巣にして食うぞとおどしたら腹を抱えて笑われたのは記憶に新しい。
『“ツバメの巣”って一応食材ではあるけど別にツバメは入ってないわよ? あれ、海藻だから』
知らなかった。その後赤面したのをボイルカニだと表されたのは言うまでもない。
だから今回は、少々の仕返しもやむなきこと。

「それに君は化粧も手作りが過ぎてるみたいだし。落とすときに苦労しない程度に濃くしろよな?」

あまり息継ぎを入れず淡々とした空気を装って言い、チルッチがうつむいた辺りで俺は止めた。この程度
へこませておけば俺の気持ちも分かって、“帰刃が手作りだ”なんて失礼なことも言わなくなるだろう。
ただあまりおちょくり過ぎて嫌われるのも嫌だから、ここらでお茶の時間に戻るかと踵を返した、ら。

「掻っ斬れ、」

振り向いた時にはもう遅い、何もかも。

「ッッ車輪鉄燕ぁああぁぁあ――!!!」
「!!? ぁ危なっ……」

どっかーん。いや爆発はしないまでも。茶卓とティーセットをひっくり返すには十分な一撃。
ついでに、従属官レベルの一破面を吹き飛ばすにも。何せ元十刃第五位の刀剣解放、つまり帰刃である。
爆煙の向こう側に、手作りみたいな派手な飾り仮面と鉄の羽と、それから泣いているような表情が見えた。

「フィン――フィンドールの馬鹿ああぁ!!!」

彼女が力を解放した姿は嫌いじゃない。
甲高くきんきんと叫ぶ声は、大好きだ。この名前を呼んでくれるなら尚のこと。
そうして交際三ヶ月めにして初めて呼ばれた名前に歓喜する暇もなく、俺は意識を手放したのだった。

虚夜宮に医務室というものは存在しない。
破面は基本的に刀剣解放をすれば回復するものだし、もしくは超速再生能力を持たない格下の破面に
対するあわれみなど、事実上虚圏の管理主をやっている藍染様は持ち合わせていないからだ。
ただ以前、彼が救急箱を抱えて六番の腕の心配をしていたのは例外として。最上級の同胞の中でも
とくべつ十刃は溺愛しているご様子だ、まあ上には上なりの事情というのがあるのだろう。
とにかく、医務室はここに有り得ないものなのだ。特別誰かがベッドを整えてくれたりしない限りは。

「べ、別に悪いなんて全然思ってないんだからね!」
「…………。」

宮で、特別整えてもらったベッドに寝かされた俺は、枕元であさっての方角を向いて喋る彼女を見上げる。
交際三カ月だ、素で言っていることと冗談の区別くらいはいい加減についた。素だった。
同時に―――素顔だった。
うっすらと朱に染まる目じりや尖らせた口には、今何の装飾も施されていない。自分の宮に入り浸って
化粧をしている姿なら何度か見たことがあったが、まったくの素顔を見るというのは初めてだ。
あさっての方角から微妙に明日の方角へと向きをずらして、消え入りそうな声でチルッチは呟く。

「なんでそんなに忘れっぽいの。『綺麗になるのは俺のためか』って、訊いたくせに。
あたしの解放も、あたしの口紅も、いっぺんは誉めたくせに、」

何か――突き刺さった。
孔が痛んだ。かつて失くしたはずの中心が、在りもしないその痕が、傷深くうずいて仕方ない。

「…………、」

何となく、掛けられたシーツをよけて腕を外に出す。
ひそかに誇りに思っている白い鋏は今はそこになく、代わりに白い包帯が巻かれた褐色の肌が見えた。
髪や身なりを美しく飾ることが得意な彼女のことだ、丁寧なそれを施すのにも時間はかからなかったろう。
ならば間に合うかもしれない。中断してしまった二人の時間を、今からでも。

(白い鋏はたしかに俺の誇りだけれど、手作りだと言われて心底傷つけられた訳じゃない。
俺だけを例外に見てからかうことにも甘んじたい。)
例外という特別。手作りという唯一。どちらにせよ、住まう世界に二つとして同じものは存在しないこと。
そんな風に自分を見てもらえることが嬉しくて、言い忘れないように今、つたえる。

「俺は別に――別に何も忘れてはいない。ただ、名前を呼んでもらえて嬉しいと思っている」
「……あんたの名前、もう忘れたわよ。馬鹿。」

結わえた黒髪を揺らして彼女は振り向き、言った。マスカラが無くても大きな目は動揺をにじませて、
目じりの朱色は見る見る内にも色濃くなってゆく。手作りとも違う無装飾の美しさに、息をのむ前に。

「『俺はフィンドール・キャリアスと言う。そうだ、俺のために綺麗になってみないか。』
……“不正解”、もうそれは達成されているな」

出会った最初と全く同じ台詞で、俺はもう一度やりなおすことにした。