HEROIC+DRINKER
酒は飲んでも飲まれるな。
ちゃぶ台に肘をついて僕の方へと身を乗り出す姿を眺めるにつけ、何度思い浮かべたことわざだろうか。
常から二十四時間営業しかめっ面の顔は今赤らんで、えらそうにあごを突き出して口を開くには。
「なああ、石田。俺、主人公なんだよなあ?」
「…………。」
アルコールの匂う大げさなため息ひとつ。いつも鋭い眼光とは真逆の、どこかうつろな眼差し。
僕が返事をしないのは台詞の先を聞きたいから。今日の黒崎は、饒舌だ。
僕の部屋で黒崎は酔っていた。十五歳が二十歳向けの飲み物を飲んだのだから当然と言えば当然だった。
めずらしいことに、現在の彼はあぐらをかくのではなく両の脚を伸ばして座りこむ。
そうして、顔の横で手のひらを忙しなくばたつかせて仰ぎながら、抑揚のでたらめな声で言うには。
「うええ、石田暑くねえ? 長袖なんか着て。」
「……五月とはいえ雨降りでしかも夜だからね。上半身脱いじゃってる君はむしろ寒そうだけど」
散らかしたジャケットとタンクトップ。傍に転がる、市販の鉱水のラベルが貼られたペットボトルは、
今は空っぽでだらしなく畳地の上に転がっている。容器の飲み口に光る透明な滴は、確か紹興酒だとか。
数日前に料理に使った時、中身を移し替えていたのを忘れて、部屋を訪れた彼に出してしまったのだ。
酒は、アパートの同じ階に住む人から旅行のお土産としてもらった品だ。彼は旅人だった。自称だけれど。
今度は一ヶ月ほど中国の奥地まで行ってきたらしい。
『良かったら、酒蒸しにでもどーぞー。』
半ば押しつけるように僕の手に酒瓶を持たせて踵を返す背には、色あせた地図が覗く革のナップザック。
すぐにエジプトに財宝発掘をしに旅立つのだと言う彼がアパートを借りている意味は未だに分からない。
酔っぱらった黒崎が喋っている意味も、分からない。
「井上とか傷治せるしー、守りも攻めも出来て」
「ルキアはなんかばんばん撃てて、つか本職で」
「チャドなんかほら素手だぞ、素手」
井上さんは拒絶するひとで朽木さんは魂を送るもの。茶渡くんは強力の持ち主で――そうなれば、僕は。
橙の頭が、首の据わらない赤ん坊みたいにぐらつく。グーとチョキの中間で他人も殴れなさそうな半端な
握り拳が、鈍い音をたてちゃぶ台に振り下ろされた。あのブラウンの眼をすがめ、据わらせて。
「そんで石田が一番あれなんですけど。弓って何だよ。遠距離型って何。マントとか何なの。
どう考えてもそっちのが主人公だろうが、ああ?」
「…………。」
(僕は――君を思う男。)
今朝の騒がしいワイドショーでも言っていた。酒に酔って羽目を外し過ぎてしまった有名人の事件。
アナウンサー曰く、彼は無意識の内に世間に望まない話題をばらまく結果となってしまったらしいが。
目の前の彼の場合、身体ではなくて心の裏側をさらけ出している気がした。おそらく自覚さえ出来ていない
深層(もしかしたら真相)を望まずばらまいている。
それをどこか苦しそうだと思うのはどうしてだろう。どうせ支離滅裂な愚痴をこぼしているだけだから、
なんて聞き流せなくて、ついつい耳を傾けてしまう。黒崎のことなら知りたいと思う。
(君の言葉なら酒が語らせるものでも聞きたい。)
一から十までを残さず知ろうとする。今はあなたに関して無知の素人なので。
いつか全てを知り尽くして玄人になろうと。時にはヒロイックゆえの苦労と向き合う。
(君を思うなら苦しみの理由ごと。)
「……いーしだー?」
聞こえる声がさっきより近くなる。身を乗り出して、はだかの上半身を胸に抱き寄せた。
「…………。」
あたたかい。温められる。飲酒のせいで少しばかり血の巡りが良くなっているためでもあるだろうけど。
腕を回した黒崎の背中は大きい。どんな強敵に向けることも想定されてないみたいに。
万一の一撃でも防ぐことを前提に作られたみたいに。重い斬月をしょっちゅう背負っている場所だから、
肩甲骨には刀の固定具でこすれた痕さえついている。
(霊体についた傷は、本当の身体に戻った時にそのまま現れるものなんだと聞いた。)
どきどき、した。
生身の温度に胸が高鳴った。なのに腕の中の人は自分ほどどきどきしてなくて、ちょっと切なくなる。
「君が主人公だろうが脇役だろうが、敵役だろうが――僕は、黒崎に味方するよ。」
土台の覚束ない黒崎の頭を抱え込んだら、
胸もとで彼がもそもそと動くたびに温い息があたってくすぐったい。低く短い笑い声が真下から聞こえた。
「け。ヒーロー気取りかっつうの……」
かかる呼気がくすぐったい。それが気持ち良い。だから自分も笑って返事をしてしまう。
「たぶん。でも、間違いなく味方だ。」
「……は、そういうことなら仕方ねえな」
おれもおまえにみかたしてやるよ。
全部ひらがなで聞こえるような舌っ足らずの告白を一言残して――腕の中の人は、意識を手放す。
「……“味方する”って、寝ちゃってるし」
虚の啼き声がかすかに聞こえる。距離はあまりに遠い。しかしそれが野放しにしておく理由にはならない。
本当は黒崎のいる所で伝統衣装に着替えるなどしたくないが、当分目を開ける気配がないのなら話は別だ。
十字架を握り締めて感覚を研ぎ澄ませる。今夜は共闘ではなく己独りでの仕事だけれど、不備はない。
そもそも日が落ちる前まで独りで虚と戦っていたのは黒崎で、多勢相手に無茶をしながら、約束の時間には
決して遅れまいと息せき切ってここへ来たのだ。だから僕は、彼の喉を労わりたかっただけだった。
何でも飲んでいいと冷蔵庫から適当に取らせて。
音をたてないよう、後ろ手でそっと窓を閉め切る。古い網戸の付いた窓だから僕はことさら気をつかう。
強い夜風になびく前髪を耳にかけ、ふと振り向いた。灯りの消えた部屋に黒崎が横たわっている。
上の服を着ずに、おとなしく毛布にくるまっている。それを当然あるべき姿とは言わないまでも、
たまにはそうあるべき姿だとは思う。ヒーローとて、夜は休み眠った方がいいに決まっているのだから。
「――行ってきます。」
真っ暗闇の中へと一歩飛ぶ。来たる戦闘へと切り替わる思考の片隅で僕は、
独りで戦うことへの心配を全くしない代わりに、ほんの少しだけ、彼の二日酔いの心配をしていた。
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HEROIC+BARTENDER
酒は百薬の長、とは確かに言う。
流し台の四面に洗剤を吹き掛け金たわしでこする彼を眺めるにつけ、何度思い浮かべたことわざだろうか。
常から不良行為とは縁の無いおとなしそうな顔は今見えなくて、まずは訊ねてみようと口を開くけど。
『なあ、石田。これ――酒か?』
「…………。」
アルコールの匂う飲み口から滴るしずくがひとつ。いつも喉を潤すものとは無縁の、ひどく刺激的な味。
俺が質問出来ないのはあまりに混乱しているから。今日の石田は、いやに落ち着き払っている。
台所で石田は排水口の掃除をしていた。同い年とはいえ独り暮らしをしているのだから当然と
言えば当然だった。めずらしいことに、現在の彼は約束の時間に遅れた俺をとがめもせず作業を続ける。
そうして、少しまるめた背をこちらに向けたまま、抑揚のあまりない声で呟くには。
「別に、完璧なスケジュールで黒崎と過ごさなきゃいけないわけでもないし――いちいち気にするな。
それより君、声がかれてる。何か好きに飲みなよ」
「あぁ………。え!? ……いいのか?」
青錆の浮いた蛇口と泡だらけのシンク。脇に置いた家庭用洗剤のラベルが貼ってあるスプレーポットは、
液を詰め替えた後らしく、そばには空の袋がある。掃除する手を休めずに今度はスプレーを取り上げ、
石田はやはり振り向かないで、いいよと言う。だから俺は、冷蔵庫にあったあれを取ってしまったのだ。
最初、一口喉に通した時におかしいとは思った。彼の規律に厳しい性分は周知の事実だ。自他共に認める。
だから、好き好んで飲むとはとても思えなかった。
『なあ、石田。これ――酒か?』
たった一言訊けばいいだけの話だが、たったの一言が言い出しづらい。もしかして普段から飲んでいるのか
とか、俺に普通にすすめているつもりなのか、とか。とにかく、この部屋に酒がある理由が分からない。
酔っぱらった誰かが喋っている意味も、分からない。
「うええ、石田暑くねえ?長袖なんか着て。」
「……五月とはいえ雨降りでしかも夜だからね。上半身脱いじゃってる君はむしろ寒そうだけど」
石田はあきれた目をして石田は疲れた声で喋って石田はどこか悲しそうで――俺は、何故か肌寒い。
最初から途中までしか思い出せない頭がぐらつく。あれが酒なのか(本当は分かっていたのに)訊きたく
なくて、確かめようと思って結局止められなかった。多分、よく覚えていないけれど、空になるまで。
「そんで石田が一番あれなんですけど。弓って何だよ。遠距離型って何。マントとか何なの。
どう考えてもそっちのが主人公だろうが、ああ?」
「…………。」
(誰が――何を言ってる?)
静かな部屋で石田は何も言わなかった。否定することも頷くこともせずにじっと座っている。
饒舌な『誰か』曰く、井上さん朽木さん茶渡さんに加えて主人公がどうのこうのという内容らしいが。
かいつまんで話を聞くかぎり、話し手はヒーローでも気取っている気がした。馬鹿馬鹿しい、八つ当たりも
同然の愚痴をせっせとばらまいて――いる、のに。
それをどこか苦しそうだと思うのはどうしてだろう。どうせ石田以外の『誰』だかも知らない奴のお喋り
なのだ、今はそんなものより彼の言葉が欲しいのに。石田のことなら知りたいと思う。
(お前の言葉なら俺を否定するものでも聞きたい。)
一から十まで誉めたたえなくていい。いつも笑みを湛えてなくてもたまには怒って。
さっきだって本当は遅刻を許さないで欲しかった。失敗にさえ執着して水に流さないでくれたらと。
(お前を思うなら格好つけてばかりもいられない。)
「……いーしだー?」
肌に触れる空気がさっきより少なくなる。膝立ちをした彼に、上半身まるごと抱きしめられた。
「……………。」
あたたかい。温められる。慣れ親しんだ匂いがする。視界がふさがれて他の感覚が鋭くなっているのか。
半身をおさめた石田の腕の中は狭くない。どんなに大きく複雑な弓矢だって軽々と扱えそうで。
何日分の買い物をしてもひょいと抱えて帰れそうで。きつく張り詰めた弦をいつも引いているあの指先は
ひどく荒れて、肩にざらついた感触を残していく。
(どんな怪我をしても、包帯さえ巻いて隠しておけばいいと思ってる節がある、あいつは。)
はらはら、した。
剥き出しの小さな傷に動揺した。なのに腕の持ち主は普段以上に落ち着いていて、ちょっと拍子抜けする。
「君が主人公だろうが脇役だろうが、敵役だろうが――僕は、黒崎に味方するよ。」
頭にひたりと頬を寄せられたら、
彼がぼそぼそと喋るたびに温い息が降りかかってきてくすぐったい。思わず笑ったら、変な声になった。
「け。ヒーロー気取りかっつうの……」
味方だと言ってもらえるのが嬉しい。こそばゆい。だからヒーローになれそうな錯覚さえしてしまう。
「たぶん。でも、間違いなく味方だ。」
「……は、そういうことなら仕方ねえな」
ああそうか。間違いなく。間違ってはいない。
俺もお前に味方してやる、それこそが正義だと思う。ヒーローになるためにはひとつ正義を持たなければ。
おれはおまえのことがすきなんだ。全部ひらがなで聞こえるような舌っ足らずの告白を一言残して
――誰かは、意識を手放す。長い夜が明けたら今度こそ訊こうと思って。
『なあ、石田。あれ――酒だったのか?』
虚の啼き声がかすかに聞こえる。次に目が覚めた時、強いあの人はまた身体のどこかに
包帯を巻きつけ、怪我を隠しているような気がした。