メグスリープ

「目、つかれた。」

シャープペンがノートの罫線上を走る音や、先月配られたばかりの教科書をめくる少々ぎこちない音。
そんな味気ない静けさを打ち破った呟きに、俺は手元の単語帳から顔を上げて、正面の石田を見た。
眼鏡を外してから天井の木目を仰ぎ、眉間のしわをきゅっとつまむまでを見て、ふと目を細めたくなる。
独りで暮らすための決して広くはないこの部屋で、暮れ方、ひどく眩しいものを見た気がした。
 
 
中間考査を明後日に控え、石田の家で最後の仕上げに取りかかる火曜の放課後。
ちゃぶ台の上には、丁度中央に置いたペン立てを境にして、分厚い参考書やら授業ノート、
ペンケースを広げた二人ぶんの学習用スペースが出来ている。

『見張りが居た方がはかどるから』と主張して必死に取り付けた約束だ。最初こそ石田は迷惑だの何だのと
愚痴っていたが、試験勉強を始めてからは俺が本当に一切の私語なくやるので逆に拍子抜けしたらしい。
この部屋を訪れた時と比べると、時計の長針はすでに二周程文字盤を回っている。
集中力も大して続かなくなってきたので自分から切り上げてもよかったが、ほのかな名残惜しさだけで手を動かす途中、
意外なことに最初に口を開いたのは俺ではなかった。

彼は優秀な人間であって、決して優秀なロボットではないのだ。
静かに勉強したいと言いながらつい喋ってしまうこともあるし、時には目だって疲れるだろう。
もともと切り取り線に負けず劣らず切れかかっていた集中力だから、こちらも気にしない。

「目、つかれた。」
「ん? そりゃ、二時間もしてりゃな。お疲れさん」
「お互いさま。……目薬、」

ちゃぶ台に手をついて立ち上がった石田は、押入れへと歩み寄りふすまを開ける。たん・と歯切れ良い音がして、
改めて目が覚める思いがする。開け放した押入れの内側には、完璧な収納空間が展開されていた。
片方のふすまを開けただけとは思えない広さだ。しかもそれが家事雑誌を参考にしたものなど
ではなく、自己流というのだから驚くしかなかった。

押入れの中にそびえるステンレスのラックを探る、同い年の後ろ姿を見て、思う。
俺は石田の師匠だという人を知らない。けれど石田を通じて、かつてその生活の指針となっていた人を
すごいひとだと感じることは出来る。そうして石田の人生を追体験出来ることも、すごいことだと思う。

「……すげえよ、何か」
「何かって何だ。」
「いや、お前のperfectな収納術が」
「……英語の点数が楽しみだな。勝負しようか、負ける気は全然ないから何か賭けてもいいよ?」

軽口を叩きあう合間に、あ、もしかして切れてたっけと石田は呟く。小さな救急箱を覗きこんでせっかちに
手探って、やがてほっと息をついて箱を棚にしまう。そしてこの部屋の定位置に戻ってきて腰を下ろした
彼は、いそいそと小袋から目薬を取り出した。さっきまで数式を解くことにだけ使われていた指は、
今度はささやかな治療のために、さらに俺が帰った後には晩の料理に駆使されるようだ。変な考えだった。
本人よりも身体の部位の方を案じるなど。が、そのおかしさに考えが及ぶほどの集中力はない。

「目薬、俺がさしてやろうか?」

勉強のし過ぎかもしれない。うっかりこぼれ出た変な考えは変な一言に結びついて、それに頷く彼もまた、
勉強に飽きて疲れていたんだろうと想像する。
 
 
「……なんか、上から見るお前も面白ェな……」
「面白い訳があるか、僕は首が痛いんだよ!」

かくいう経緯で俺は石田に目薬をさしていた。
馬鹿にされる申し出かもしれないとはすぐ思ったが、眼鏡を外した状態の視力で目薬をさすことは難儀な
ものらしく、承諾はわりとあっさり得られたのだ。
ただ、合意の上での行為に口うるさく文句を言われているのは――なかなか事が始まらないからだろう。

正座をした彼の右肩をしかと掴み、その一点を支えにして俺は膝立ちしていた。そうして裸眼を見下ろし、
とっくにふたを開けた目薬を構えているという構図。つまり今、俺はしずくが落ちないよう容器をつまんで
持っているだけで、意図的に焦らしている訳だった。滅多にお目にかかることのないアングルからの景色は
とても目を楽しませて、いい迷惑だと分かっていてもなかなか止められない。
せっかくめずらしい景色を眺めているのだからと気まぐれに実況してみせる。

「髪、柔らけーから真下に流れてんのか……まつ毛も結構長えのな、眼鏡のせいで意外に気付かねえよ」
「そんなの知るか!もう、さっきは下向きっぱなしだったのに……絶対こんなの首に悪いに決まってる」
「お、鼻毛出てっぞ」
「はな……っ!?」
「うっそー。」

喉奥で笑うと、ぎりりと音が聞こえそうなくらいに薄い唇が噛みしめられる。冷静さを保っていた表情は
悔しげにゆがんで、畳地に力なく下ろしていた手は血管の浮いた握り拳を作りわなわなふるえていた。
が、そうしていながら指一本でも動かす気配はない。この状態でパンチの一発でも繰り出そうものなら、
取り落とした目薬の容器が彼の顔を直撃するのはどちらにとっても分かりきったことだ。

「……~っさっさと、しろ、馬鹿黒崎!!」
「ま、気長にな。狙い定めてんの」

真っ昼間から無理な姿勢を強いているという状況。
座った状態で真上を向き、喉が圧迫されたその声音に少しだけ良ろしくない気持ちもかきたてられたが。
薬を与える時にそれは余計なものだと知っている。突きつめれば結局『楽にしたい』、それだけなのだ。

「分ぁかった、ちゃんと目開けて。」

途端に、わめきたてる声が止む。大人しいひとに薬をさして楽にする。
黒い真円を描く瞳にしずくを落とした。涙をこぼす瞬間を巻き戻しで再生しているみたいだと思った。
 
 
「見ろ、君が余計な手間かけるから……」

シャツの袖口で三度は拭ったか、それでも潤みきった目許で石田はようやく眼鏡をかける。
散々引っ張って最後はきちんと薬を入れたつもりだったが、指先に力を込め過ぎたせいで三・四滴出てしまったらしい。
レンズの向こうの目が何度も瞬いてこちらを睨む。しかめっ面が小さく唸った。

「いつか同じ目に遭わせてやる」
「お、いつでも大歓迎だぞ俺は。」
「……そうなのか? じゃあ遠慮なく、今」

しかめた表情は失笑で変な形にくずれた。
石田はいそいそと立ち上がって一気に距離が詰まる。その手には、まだ元の場所にしまわれていない目薬。

俺はすぐに捕まえられて、あっという間に立場はさっきと逆転してしまっていた。膝立ちをして
目薬を構える彼に肩を掴まれ、真上を向かされる。夕暮れ時の太陽の光が部屋を満たしているせいで、
普段黒の瞳は、自身とよく似た淡いブラウン色だ。料理や裁縫に長けた指先で俺の顎を軽く持ち上げて、
石田はいい気味だと言わんばかりに鼻で笑った。

「上向くのって意外と重労働なんだよ、解ったか?」
「んー……つか、こういうのも燃えるかも」
「……変態」
「目薬を処方してもらいたいだけの患者ですよっと」

あきれ返ったため息とともに、値踏みするように細めていた目が完全に閉じられる。
黒を下地にしたブラウンが見えなくなることを、残念に思うけれど。

「黒崎につける薬はないね。」

すぐに景色の半分が見えなくなった。まぶたでしか塞がれたことのない左の目を、はじめて唇で塞がれていた。
湿りけを帯びた感触を残して身体が離れる頃には、楽になれるどころか指先まで熱く痺れるばかりで。

「……すげえよ、何か」
「何かって何だ。」
「いや、お前が。すごいやつだ。さすがだ。」
「……国語は僕の勝ちかな。意味分かんないよ」

今のは治療でも何でもなくてただの仕返し。でも、その時ふいと背けた横顔が
かすかに色めくのは目薬ではなくて俺のせいだと、自意識過剰に思ってみたりもして。

後日、試験は何の滞りなく終わってしまったが。俺を見下ろした時の満足げな表情はまぶたの裏側に
焼き付いて消えず、三日三晩は夢に現れたのだとか。
(四日めの朝、あの目薬は惚れ薬だったのかもしれないなんて君は寝言を言っていた。)