時は師走、十二月三十一日・午前。総司令を気取る親父によって、レスキュー隊か何かの
訓練のようにきっちりと手順の定められた年末恒例の大掃除を家族全員で終えた、その翌日。
おせち作りは遊子と夏梨が奮闘し(俺も少なからず手を貸したが)あとは注文しておいた年越し蕎麦が
家に配達されるのを待つのみと言ったところだ。居間のテーブルの上がことさら綺麗に片付いている
のは、晩に皆であの有名な歌合戦を観るために。その時、家の前でバイクの止まる音がした。
「あれ……お蕎麦もう来たのかな。お兄ちゃん、ちょっと手ふさがってるから出てくれない?」
「あぁ、見てくる。」
遊子は台所で甘酒の鍋を火にかけている。甘い匂いを背に、冷え切った玄関に降りてドアを開けるとそこに
予想した配達員の姿はない。辺りを見渡すと代わりに郵便受けのふたが少しだけ開いていた。
「……郵便か」
この年の瀬にご苦労様です。
心の中でだけ礼をして、何気なく箱を覗いてみると――井上から、年賀状が届いていた。
「ねえ、お蕎麦の配達だった?」
「あー……いや……それは後で来るだろ。違ってた」
「ふうん。やっぱりまだ早いよね、夕ご飯だもの」
遊子はくるくるとおたまで鍋をかきまぜて、歌まで口ずさんでいる。もう蕎麦ですら関心の外なのか、
いつものようにまだかまだかと急いて待つ事はない。昨日までが嵐のように忙しかったから、年の最後の
一日くらいは、とのんびり構えているのだろう。然るに俺は助かった。細かに追及されずに済んだ。
何となく忍び足で部屋に戻り、うっかり握りしめてしまわないように慎重につまんでいたその年賀状を
頭上にかざした。ベッドに寝転がると、郵便番号の隣に窓枠と透きとおる冬空が見える。
はがきの隅に添えられた手書きの絵で、可愛らしくデフォルメされた牛は懸命にマフラーを編んでいた。
『あけましておめでとうございます。昨年はとても、とてもお世話になりました。本当に、
ありがとうございました。今年が黒崎君にとって、笑顔の多い一年になりますように! 井上』
整って、やや丸みを帯びたやわらかな文字。十秒もかからずに読めるシンプルな文面。
シンプルすぎて、一拍遅れてそれが初めて彼女からもらった年賀状だということを思い出す。
けれど感慨に浸る前に問題にすべきは届いた日付だった。
「……なんで大晦日?」
確かに井上は多少なり抜けているところがある。しかし、それでポストに投函した年賀状まで
日付が間違って届く・なんてことはまさか無いだろう。郵便局のとんだ手違いだと思う他ない。
(それにしてもなぁ、)
本来なら未来に読んでいるはずのものを、一日早く先取りして目にしているというのは不思議だった。
そして自分も井上宛てに投函済みだが、素っ気ない文を思いだして今更気になってくる。
あけまして、と今年もよろしく、しか書いていない。
(やっぱ冷たい奴、かも)
俺と井上は付き合っている……が、半年は進展なし。
互いの家を行き来したり二人だけで遊びに出かけるなんてことは滅多になく、学校での会話もそこそこ同級生レベルだ。
じゃあ何で付き合っているのかと問われたら、それも返答に困る。
ただ別れようとだけは思わなかった。井上から告白された時には断れなかった、
ではなく確かに俺が断りたくないと思ったのだ。そうして、距離が近づくにつれて初めて
“好意”じみたものを自覚した気がする。後付けだなんだと言われようがかまわない。
だからこそ、いきなり関係を深めるのは無理な話で。クリスマスは井上の家で過ごしたものの、
年末から正月にかけては何の予定もない。井上も『人出が多いだろうから』と言っていた。
今もひとりで、彼女は家にいるだろうか。明日も明後日も、騒がしく浮き立った世界から切り離された
小さな部屋で、ひとりっきりで。慣れてしまうくらい、傍に家族のいない正月を重ね。
――何だか、唐突に肌寒く感じられる。
(……あまいもの、)
アルコールの入っていない、正統に則った手作りの甘酒。井上は好きだろうか。俺を好きだろうか。
訪ねても迷惑じゃなければいい。今度は堂々と台所へ降りる。目指すのは、通い慣れるには程遠いあの家。
「遊子、甘酒ちょっともらってくぞ。」
「ん・いくらでもどうぞ! いっぱい作ったんだよ」
「おつかれ。蕎麦は後で俺がしてやるからな」
「本当!? 楽しみだね、夏梨ちゃんっ」
遊子はおたまを持ったままでとても嬉しそうに夏梨に抱きついて驚かれ、危ないと叱られていた。
さて、湯気の立つ甘酒を水筒に移して準備完了。居間のソファに放ってあるマフラーとジャケットを掴み、
紙袋に水筒と財布ハンカチやらを突っ込んではやる気持ちで玄関へと向かう。
時刻は午前十時。扉の向こうに広がる空は、窓硝子越しに見るよりもずっと透けている。
「いってきます。」
自転車のハンドルを握りしめた手は、もう指先がかじかんで少し強張っているけれど。
ふたりを繋ぐきっかけを作ってくれた大晦日のささいな間違いに、今だけは感謝しようと思った。
(追伸。)
やがてたどりついた玄関先で俺を迎えたのが、巫女姿の井上だったのにはさすがに仰天した。
見上げてくる大きな瞳と真白い呼気が絡む長い栗毛、無垢の袂と朱袴から覗く細い手足に、緊張する。
「あっ、明日から神社でバイトなの!
それで衣装を、た・試しに家で着てみなさいって……だから予定入れなくて。ごめんね、」
頬を赤く染め今にも泣きそうな顔で井上は説明する。
俺に黙っていたことを咎められるとでも思っているのだろうか。だったら、それはちょっと寂しい。
「あ――その。今、甘酒持って来たんだけど。嫌いじゃねぇか? 寒いし、温まると思って」
ぽかんとした顔を上げて言葉のない彼女に、俺はそっぽを向くしか出来ないのだけど。
「つか……今日、井上のとこ来てよかった。」
ややあって彼女はほほえみ、扉を開けきる。似合っていると、ただの一言も言えないのは今年の
反省。せめてその悪い癖を持ち越さないよう、俺は来年の目標にひとつ、付け加えたのだった。