呼べない君の

君の名前を一度も口に出して呼んだことがない。そう気づいたら居ても立ってもいられなくなった。

電灯を消した天井を見上げて、ひとりベッドに沈む。息を潜める目覚まし時計も机の上のくたびれた鞄も、
視界を覆う全部が蒼白く染められる、夜のなかば頃。まるで病室にいる気分だった。
時間の進みかたが、まぶたの溶けるのを待つようにゆるやかになる。溶ける前に、唱えてみた。

「……おり、」

唱え終わる前に、途切れてしまう。たった四つの音が組み合わさっただけの名前を、
呼んだことがないと知ったのは、ついさっきだ。そうして呼ばずにおれなくなったけれど失敗が続く。
今日の朝、必死の思いであいさつに声をかけただけの勇気をよく思い出して、もう一度唇を動かしてみる。
おはようを言っておはようを返された最高の日だ、そんな一日の終わりが上手くいかないはずがない。

「……お、」

さっきより一文字減って気が滅入った。この一日、寝入る前になって一番頭を働かせている気がする。
布団を勢いよくかぶっても歯がゆさはつのるだけ。
(駄目だ、俺は。)
失敗しないためには駄目な理由を考えるしかない。名前だけ意識して思い浮かべるから駄目なのだ、
固有名詞ではなくて一般名詞として文脈の中に入っていたら普通に流れのまま言えるのではないだろうか。
それはたとえば、

「こと座一等星のベガ、通称織姫星とは」

あれ――言えた。
くぐもった衣擦れの音しかないこの塞がれた空間で、発した声はやけにはっきりしたものとして聞こえる。
最近理科総合の授業で何となくノートに書きとめたばかりの知識は、あっさりと口をついて出てくれた。
こと座一等星のベガ、通称織姫星とは。聞き流すのがもったいなくて何となく書きとめた。
昼下がりの教室の、教卓に近いの前のほうの席で、日差しを受けたなで肩を滑る長い髪を眺めながら。
このまま呼ぶことを諦めたら楽にはなるだろう。けれど、そんな弱気な方法で楽にはなりたくない。

(井上が安易に諦めるところを俺は見ていない。)

ずっと見ているからそんなところは見ていない。だから俺は何度でも試してみようと考えられる。

「……、……お、おり」

ああ――逆戻り。喉まで出かかって、出ない。ノートに書きとめるのはあんなにも簡単だったのに、
母音も子音も発音でさえ海の向こうの言葉より複雑なものに思えてくる。
衝動的にかきあげた前髪はまだ湿り気をおびていて、自分が風呂上がりにすぐ布団に入ったのを思い出す。
風呂場で軽くのぼせるほどに悩んだ問題を、まさか寝床まで持ち込む羽目になると思っちゃいなかった。
呼べない君の名前は難しい。おりひめ、とそらんじるだけのこと。

(……面倒くせ、)

手の甲で口もとを抑えつける。同時に真っ暗闇を見据えるのもやめて目をつむる。
顔が熱いのは風呂上がりだからだ、ちくしょう。こんなことは今まで誰も教えてくれなかった。
こと座一等星のベガが織姫星だからと教わったって、どうせそんなのは最初に言い出した奴の勝手なのだ。
呼べない彼女の名前を呼ぶ方法など、彼は知らない。だからと言えど俺も知らなくて困っている訳だが。

(ああもう、さっさと教えろ井上)

あれ? 最初から彼女に直に訊けばよかったんじゃないのか。

すべては最初から約束事。
星と天文学者の間の距離は絶対に縮まらない。何故か昔から、科学でそうだと決まっている。
でも、約束事はいつか破られるのも決まっている。ましてその縮まらない距離が実は大したことなかった
なんて。呼べない名前に散々頭を悩ませるだけの彼がそれを知るまで、あと一ヶ月は必要だったとか。
(あなたの名前をわたしの口にのせていいですか?)