右肩アッパー

規則的な靴音、チューニングを済ませたサックス、表舞台に上がる時だけ身を包む深紅の制服。
次の目的地へと向かうべく踏み込んだ真っ暗なトンネルには生温い向かい風が吹いていて、
こんな心細い道でこそ、指揮者志望のオレが演奏者である刻阪を率いて守らねば、と気負ってみたけれど。
右側を歩く彼はまるでご機嫌リズミカル、ビートを刻むように右肩上がり、ほんの少し浮き立っていた。

「……なんか刻阪……、楽しそうだな」
「うん。わくわくしちゃって、正直舞い上がってる」
「……他に誰も見てねェから、こんな状況でも喜んでられんのか?」
「いいや、僕は見られて喜ぶタイプだよ。つまり神峰がじろじろ見るのが悪い、僕の肩に心でもついてる?」
「や、」

閉塞的なトンネル内に反響する声(鼻歌混じり)に、ただでさえ切羽詰まった状況がますます把握できなくなる。
浮かないオレにかまうことなく、彼がのん気に口笛さえ吹き始める理由がサッパリ分からない。
晴天の霹靂だった。学校に通えなくなった。住み慣れた拠り所から、出て行かなければならなくなったのだ。

「どうしてそんな、笑えるんだ。お前本当に――刻阪か?」

置いてけぼりにされたくなくて、気が付けば、彼の行く手に回り込んで立ち塞がっていた。
どうしても、先走りたかったのだ。指揮をしたくて、導きたくて。

見慣れた銀色の明かりを胸もとに抱く彼は、あれほど迷いなく歩を進めた足を止めきょとんとした顔になる。
そして何を誤解したのやら、申し訳なさげに鼻先に片手を立てて、恥じらいながら弁明した。

「あ。やっぱり、僕だけヘラヘラしてたら、変?」
「……?」
「神峰がしかめっ面だから、横でバランス取ろうと思ったんだけど。なにせ初めてで、加減が難しくて」
「…………バランスう……?」
「こういうのは、第一印象が肝心だぞ。音羽先輩がこの座を譲ってくれたんだ、つまらない真似は出来ない」
「………………ああ……。だったら今度が“初めて”じゃねェだろ、忘れてくれるな」

先の見えない出口だと思って、疲れた足を引き摺ってきたのに。
目標に背いた瞬間に現れた、立ちはだかるのをやめて振り向くと、そこには大きな鉄の扉があった。
(こうして共に扉の前に立つのは、もう二度目のことだと確かに覚えている。)
初めての時は緊張してどちらも笑えず、今回は刻阪がオレの分まで笑おうと企んだ。
ならば二度あることはまた三度、この次の扉までたどりついたとして、誰が笑えばいいのか少し考えて。

――ドアノブに右手を伸ばすと、刻阪は何も言わずに左手を差し伸べた。
ピンポンダッシュにでも走る気分だ、閉じた扉が目の前にあれば、開けずにはいられない好奇心。
それこそ音羽先輩に悪ガキがって怒られるかも、こんな悪いことしたのだ、友達を疑ったりなど。
しかし殴られても仕方ないそんな罪を、刻阪は、右肩が揺れるほど笑っただけで見逃してくれるらしい。

「よく考えたら僕、やっぱりこれが初めてだって。
だってサックスはいつでも忘れず持ってたけれど、口をつけて吹いていたことは一度もないだろ」
「……そう言やないな。じゃあ今から吹いてくれ、待ってた続きを。」

重いドアノブを力強く握って回すと、電撃のような歓声が爆ぜる。ノブが帯びた静電気と呼ぶには
いささか強烈すぎるその刺激に、案の定オレは、刻阪の横でしかめっ面になってしまっていた。