スマホにイヤホンを繋ぎ、ピアノ演奏アプリを起動する。
昼に学校で受けた手ほどきを夜は家で一人で復習する、そんなルーティンワークにも慣れてきたけれど、
誤魔化せなくなってきた指の疲れに顔をしかめてしまう辺り、まだまだモノに出来ていないのは明白だ。
しかしここへきて引くに引けない、いや弾け、と半ばやけくそに鍵盤に指を滑らせると――
見越したように、ラインがきた。何やら画像つきで短く一言、刻阪だ。
『起きてるかな。疲れて寝てたら、ごめん。でもこれ、やってみる?』
『起きてた。やる!』
……本当にちょっと、ちょっとだけ練習を後回しにする口実が舞い込んだことにほっとしつつ、オレは画像を開く。
刻阪の手の甲を撮った一枚だった。親指と人差し指の付け根が交わる一点に添えられた
「←ツボ。軽くもみほぐす」の手書き文字を見る限り、どうやらピアノ特訓による手の疲れを見越して、
指圧を試してみないかというメッセージらしい。
この目の能力でもないけれど、彼は彼で、親心のようになんでもお見通しな節があるのは不思議である
(もっとも今回は、陸上選手が出走前に手首をぶらつかせるように指揮者志望が無意識にやっていたのを、
親友が目ざとく見ていただけだったのだが。そこは神のみぞ知る)。ともあれ、画面上の手の横に
自分のを並べて、ぐぐっと揉んでみた。痛いほどやりすぎるなという注意書きにも、気をつけながら。
「……おお……? おー……。 おおおぉう!」
咄嗟に自分の口を手のひらで塞いだ。夜だからと演奏の音漏れにはかなり気を遣っているのに、バカみたいに
ひとりで感嘆しているのでは、何のことだか分からない。静かにすべきだ騒音注意、ご近所トラブルに……
『いやでもこれ、結構グッとくるな! 夢中になって返信忘れかけてた程だ!』
『何よりの言葉だ、どうも。僕も、吹く時も吹かない時でもするやつなんだ。感覚が鈍ってる時とか』
なるほど、納得したオレはバッチリベアが親指を立てているスタンプを返す。
というか送ってから気付いたが、これ自体がツボを押すポーズにも見える。オレはずいぶん気を遣って、小さく噴き出した。
大声で笑いたかったけれど、こらえて、息を細く吐いて―――画面に映した刻阪の手に、そっと自分の手のひらをのせる。
ひんやりとした無機質な冷たさに、しかし今更手を引くことなど出来ない。
「……やりすぎなんだよな、多分。」
スプリングコンサートで目論んでいる金井淵先輩達のアンサンブルには、自分は入っても、刻阪はいない。
突破しなければならない心の障壁について考えて、夢に見るほど悩んだ末にそう決めたことに、彼は余計な口出しはしなかった。
その代わりに今夜みたいに、息抜きにと貸してくれる、その手がどんなに助かるか。
『―――じゃあまた明日な。いいツボ教えてくれて、ありがとう』
『ああ。そのうち悪いツボも教えてやろう、秘孔とか』
『助かる気がしねェ!』
この間そろって立ち読みした漫画の話など冗談めかし、最後は昼夜逆転丸のスタンプで『お休みなさい』。
さあ、つりそうなほどだった指先の凝も揉みほぐしたところで、待ちに待った練習再開といきたいが……
最後のジョークはもしかして、暗黙の宣戦布告なんかじゃあないだろうな?
今回限りは二人で戦わず置いてけぼりにしてしまったから、事が済んだら、思う存分演奏者として刃向かってやるぞ、みたいな。
ああどうしようとやりすぎで考えすぎな頭を抱える、指先は幸せなことにもう暖まっている。
ウォーミングアップは完了だ、決して敵に回したくはないが、いつでも挑み合いたい友のおかげに。