刻阪には意外と腕力がある。
そんな事実を俺が身をもって知ったのは、初めての指揮権を賭けた部内投票戦・「木挽歌」合奏をやり遂げた後のことだった。
倒れかけた邑楽先輩をとっさに抱きとめた俺は軽くお叱りを受けるハメになったのだが
(無意識とはいえ出しゃばりすぎたか。反省)、
気まずい空気で離れるやいなや、入れ違いに駆け寄ってきた刻阪が俺の手首をがしりと掴む。
「神峰、指切ってる。ついてきて」
「へ、?」
焦った声音から何かを見出そうとしても、彼はすぐに踵を返すので心を見ることはかなわない。
しかし俺は、言われて初めてようやく――心臓の高さまで持ち上げるように掴まれた右手の、
人差し指に出来たささやかな傷を目の当たりにした。指の腹には線香花火みたいな血の玉が浮いていて
いつの間に、と俺はぎょっとしたけれど、持つ高さと手首を掴む力は、どうやら止血のためらしい。
(吹奏楽に基礎体力は大事だって、ああ確かに。)
第一音楽室を出ると、そこに面した窓際の手洗い場で刻阪は蛇口をひねった。
普段は楽器の口につけるマウスピースなんかを洗浄する場所で、傷口を洗うちぐはぐ感。
十一月の冷水にさらされて身震いをひとつする、その間にも
刻阪はもう鞄を探って絆創膏とティッシュを取り出している。
水気を拭って絆創膏を巻いて、時間巻いて―――あっという間。
まるで指揮棒にかまわず早いテンポで演奏するよう、サックスは走って。
栓を閉めるまでしてくれた刻阪は、そこで初めて安堵のため息をつく。
「あの譜面台、だいぶ古くて錆びてたからさ。手の傷が長引くと神峰には良くないし」
「……あ、それか……! すげぇ助かった。ありがとうな」
急な行動をようやく理解して、ふっと肩の力も抜ける。
刻阪には遠目にも見えていたのだ。誰もが派手な音と『影のスーパーアイドル』に釘づけの中、
もろともにぶつかりそうになった譜面台を、俺が同時に右手で払い除けていたことを。
きっと、その際に錆びついて劣化した金具に指先を引っかけてしまったのだ。
ほんのひと月前、文化祭の看板作りの大工仕事を押し付けられた時には、
金槌を打ち損ねてケガをしても誰も気付かなかったのに……
(って、あれ? あれ、)
傷ついて、活気づいて、気付いてしまう。
『手の傷が長引くとオレには良くない』って、そういう理由なら。
(繊細な動作と緻密な制御を求められるこの指が、指揮を執るためだけにあるのなら。
もしも俺が指揮者でなかったら、ケガしてもいい身分なら、刻阪が気付くこともなかったのだろうか?)
……この期に及んでまだ俺は、全部思い出に変えて保存してしまってもいいと、覚悟しているのかも。
鞄を閉じながら「おつかれ。最高にやり切ったな、お前のおかげだ」と屈託なく笑う友にさえ、
傷口が深くなる前に答えを出してもらおうと思っちゃったんだから――しょうがないだろ。
「なあ刻阪。もし俺の手がダメになったら、どうすんの」
「え。その時は僕が手を貸すよ? 右手だけで吹けるサックスもあるから、幸い左手が空いてるよ」
……後半は、なんか違う気がしないでも。
しかし、やっぱり――あっと言う間だった。
けろりとした真顔で刻阪はそう言ってのけ、ほんの刹那で、愚問は鮮やかに一蹴されていた。
あれ、こいつ、サッカー部員でもないのに蹴るのが上手いなんて。
今を時めく吹奏楽部員のくせに、指揮に懸けるのは甘いなんてもんじゃなくて。
消去するように忘れるなんて、そんなことは出来ないのだと。
「……分かった……、分かった、悪かったな。出来るだけ早く治すし、これからはその辺も気を付ける」
「ううん? 悪くはないだろ、邑楽先輩が助かったのに」
「う、それはそうだけど」
「まあ、とにかくしばらく買い換えてない譜面台には要注意だね。
楽器の持ち運びも打樋先輩がかなり気を使うだろう? あれは部員にケガさせないためでもあるし」
「あ……そうか。そうなんだ」
指から顔を上げて頷けば、もうどこも痛くない。
ひとつひとつ教えてくれる刻阪の言葉に、卑屈にうつむきかけた俺はもう一度前を向かされている。
そうして目を離した絆創膏にプリントされた、ぐっと親指を立てた子熊のポップな絵柄までも
今日の演奏をほめてくれたみたいに見えて――なんてのは、さすがに夢を見過ぎだろうか?