僕らが心地よい達成感に包まれて天籟ホールを後にする帰り道、
乗り込んだバスで神峰がまず鞄から取りだしたのは、好みの甘いお菓子でも、マナーモードにしていた携帯電話でもなかった。
『吹奏楽のための木挽き歌 1-4 神峰翔太』。
そう題したノートを開き、寒さで不自由そうな指先がペンを走らせる。
何気なくそれを目で追うと、どうやら世界のイチョウに浴びせられた怒涛の『文句』を、
忘れぬうちにと書き起こしているらしい。
「んー……」
創部史上の奇跡を起こした興奮さめやらぬ車内で、
僕の隣の窓際の席だけが区切られた水槽みたいに静かだった。
本人はいたって真面目な顔で、そのおかしなトータルコーディネイトを気にする様子もなく復習に励む。
今の彼はと言うと、吹奏楽部の深紅の勝負服の上から深緑のコートを着込み、眼帯を着け、
頭には打樋先輩が快く貸してくれたヘアバンドで氷嚢を固定しているのだ。
――と、道がカーブに差し掛かったのか車体が揺れる。
あ、と隣から漏れる小さな声。半減した視界に加えて、舞台から落ちた時に右手も変なつき方をしたのか、
もともと崩れかけていた書体は乱れる。見ていられない。
「神峰……書くことを読み上げてくれたら、僕がメモしようか」
「お…、おお! 悪いな!」
ガーゼに覆い隠されない片目だけぱっと輝かせての返事に頷き返し、膝の上でくたびれたノートを開く。
(そう言えば出会った時には彼に「僕の目になって」と頼んだのに、今は僕が彼の目を担う逆転。)
ひとつずつ噛みしめるように自分の欠点をあげていく、しっかりした声音を聞きながら、黙って手を動かす。
傍で聞いていた僕が忘れていた部分も、彼は思い出し思い出し、丁寧にそらんじていく。
「――で、打楽器の注意点はこんくれーか。あと、ノリで跳ばない。だな」
「ん。『ノリで跳ばない』…と」
「それから、あともう一個」
「もういっこ」
車窓から見える十二月のイルミネーションには目もくれず、僕は言葉をくり返す。輪唱のように。
「サックスと」
「『サックスと』」
「楽しく、」
「『楽しく』」
「音楽出来て、良かった。」
「……」
手を止めて顔を上げると、襟のファーに鼻まで顔を埋めた神峰がぎゅっと目をつむっていた。
それが両目で笑っているのだと気づくのに、眼帯は無粋すぎる。
だから塞がれていない口で、噛まずに済んだ赤い舌で、秘密めかして呟くのだろうか。
「畜生、楽しいんだ。楽しかったんだ。楽しくて――今日は帰りたくねェ、ってこういうことなのか?」
……僕もそれなりにはしゃいだけど、遠足帰りの小学生でもあるまいに。
いまだ腫れの引かない赤い頬で、痛々しい眼帯の下ではまぶたをひきつらせて、
楽しかったねなんて、今日の戦いを振り返られたら。
「…………きもちわるっ」
「はあぁ!??」
「え、いやあの違、ほんとごめん! ずっと下向いてノートとってたらなんか僕酔っ……うぇ」
「だ、大丈夫か刻阪!? スミマセン先輩!誰か酔い止め持ってないスか!?」
行きは良いよい、帰りは悪酔い。
気遣わしげに背中をさすられながら、僕はつとめて冷静に息を整える。
介抱する側とされる側、あっという間にひっくり返った立場にとまどいを隠せない。
指揮者のアクシデントと立て続けのそれに、先輩方にも「今年の一年生は手がかかるな」と苦笑されるし。
ああ、『帰りたくない』なんて冗談じゃない、まったく。
「なあ、ほら刻阪、もうすぐ着く、帰れるぞ! 大丈夫だからな!」
(音楽好きな、かえるの子たちの乗ったバスの中で。)
「帰りたくない」と打ち明けた口で、「もうすぐ帰れる」と励ましてくれる。
いたって真面目な顔でさっきまでと真逆の事を歌うのなんて、
やっぱり、僕の隣に座る神峰だけなのだった。