十二月、起き抜けの頭でふと首を傾げた。
いくつの時だったろうか、親に手伝われずに、自分ひとりで服を着られるようになったのは。
朝の冷え込みにぎこちなく凝り固まった四肢で、わっと騒ぐ鳥肌をなだめつつ、パジャマを脱ぐ悪戦苦闘。
体温の残る布団からはまだ重い腰を上げたくないけれど、
それでも以前よりはずいぶんと、学校に行く支度が苦にならなくなったものだ。
刻阪の音の手は、制服に着替えるのを手伝ってくれる。
靴下をはいてネクタイを締めるくらいはひとりで出来るけれど、指揮棒ケースは手渡されるつもりで。
こんな静かな朝にも彼は、消音器をつけたサックスを、密やかに吹いているだろう。
オレがひとりでカノンの運指に指先をもつれさせる時、刻阪の「手」は連弾でそこに伴った。
もちろん生身の彼はパート練習の最中で、文化祭の時のように校内放送のマイクも通していないのだが、
どこかでソロを吹くテナー・サックスの音色は、開いた扉から入り込み、何故だかオレに合っている。
「……。」
弾くのをいっとき中断して耳を傾ける。
その音を聞き分けられることは、もう不思議でもなくなった。
もしくは、オレがひとりでぶ厚い楽典のページをめくる時、刻阪の「手」は赤ペンを握っていた。
むろん彼は顧問の先生などではないし、右も左もわからない初心者にあれこれ指図したりしないのだけど、
どこかで別の曲を吹いているソプラノ・サックスの音色は、宙に花丸を描きながら輪と響く。
「スゲェ、一筆書き!」
フリーハンドの曲線と、平行線をたどる五線譜とのせめぎあい。
その間に生まれる音なら、目に入れたって痛くなさそう。
そんな風に、刻阪の音はいつも目の届く場所にあったのだが、その日は様子が違っていた。
風邪を引いてしまったオレが、ひとりで保健室で寝込む五時間目、
「音の手」は、どんなに目を凝らしてもどこにも見当たらないのだ。
「そりゃあそうだ、今日は顔も合わせてねーし。うつしたら、大変だ……」
ひとりごちたら咳が出た。
今朝感じたほんの少しの気だるさは半日もしない内にひどい熱といやな脂汗にかわり、
くしゃみひとつで隣の席のやつには鼻をつままれ(心で)、
もう一人の日直当番には仕事を押し付けてしまったことで舌打ちされ(心で)、
そこそこ悲しいので「サボリじゃないか」と疑う養護教諭の心はせめて見えないよう布団に埋もれる。
こんなことなら、御器谷先輩くらい丈夫に鍛えておくんだったのに。
ともかく少し休んだら谺先生への伝言でも頼み、刻阪にだけは絶対に見つからない内に早退すべきだろう。
だるくても寒くても、あんなに学校に行きたいと思った、おかげで思えたから……早く帰りたい。
悪寒はするわ喉は痛いわで、身震いすらもうくたびれた。
おまけに頭は割れそうなほど、ひんやりして気持ちいい………「………?」
そこで勘違いに気が付いた。
どうりで、どんなに目を凝らしてもどこにも見当たらないはずだ――刻阪の「音の手」は
まぶたの上、汗をかいて前髪のはりつくオレのひたいに、そっとのせられていた。
「…………冷てェ、」
壁に貼られている全学年全クラスの時間割表によると今は音楽の授業中らしい、
そして一年の履修はちょうど、楽器を持たない合唱の分野に差し掛かったところだ。
当然、防音仕様の音楽室から職員棟まで歌声が聞こえることこそないものの、
サックスが人の声も混じった音を出すと教えてくれたのは、他の誰でもない刻阪で。
……この間は、彼が武器とするアルト・サックスを、初めて持たせてもらったのだっけ。
それは想像よりも重みがあって、人体の器官のような緻密な構造には思わず見とれさせられたものだ。
そして確かに聞いて知っている、こんな風に肌にすっとなじむ、心地よく低い冷ややかさ。
「クソ。目が悪ィのが治らねーなら、風邪くらいはどうにかするか」
高い熱のせいかもしれないけれど、見えるはずのない心が見えた。
布団から出たがらなかった昔には戻りたくなくて、
また明日も学校に来たいと、オレは心の中で声高に訴えていた。
・・・・・・・・・・・・・・・
スコーン作りに取り組む調理実習の時間、板チョコレートを刻む手元が狂って包丁で指を切ってしまった。
いくら台所に立ち慣れていないとはいえ、魚を捌くでもない、こんな単純作業をでしくじるとは。
『そう言えば、今朝から神峰と顔を合わせていないな』、なんて、上の空で授業を受けていたからだろうか。
同じ班の委員長に絆創膏を巻いてもらいながら、僕は懲りもせず、考える人――
そんな不注意が祟ったかどうかまでは分からないが、出来上がったスコーンまで、角が少し焦げてしまった。
昼休み、今日は食堂で済ませるかと財布を開くと、お金を入れ忘れたせいで百円しか残っていなかった。
神峰も相変わらず見つからないし、適当につかまえたクラスメイトに尋ねてみてもみな首を傾げるだけだ
(さすがに、神峰本人と彼らが同じクラスだと認識した上での返答だと信じたい)。
さて……、仕方ないので、僕はなけなしの百円玉をドリンク自販機に投じる。
するとケガをした指先が、隣り合う無糖と加糖のボタンを押し間違えやがった。
左手で右手を「め、」と叩いたら当たり前に痛かったが……、
砂糖とミルクたっぷりのコーヒーは、ほろ苦い失敗作のスコーンに、意外に合わないこともない。
放課後の部活の時間、その日はパートごとに分かれて谺先生に指導してもらっていたのだが、
ここでかなり辛口のダメ出しを、名指しで食らってしまった。
「刻阪、今日のあんた、なんか変よ。文化祭の前に逆戻りしたみたい。神峰の風邪でもうつったの?」
思わぬ方向からもたらされた彼の消息、そしてそれ以上にストレートな言葉がぐさりと突き刺さる。
ほんの一か月前ではあれど、今の僕にとって「文化祭の前みたい」というのは最もこたえる感想だった。
しかもそれ以上ガミガミお説教されず、ぽいっと開放されたのが余計に居心地が悪い。僕はひとまず歌林先輩
に断って、半刻後の全体練習まで一人で抜けさせてもらうことにし……逃げ込んだ屋上で、ひとりっきり。
吹きつける風の重さと冷たさに、空きっ腹に、すぐにはサックスに口をつける気にはなれない。
今日は朝から散々だ。もしかして神峰が居ないから、こんなに集中力を欠き、心配し過ぎて空回り――異変な僕。
「……いや、じゃなくて、――そうじゃなくて。やっぱり今日の僕、変?」
指を切って、スコーンを焦がし、お金がなく、ブラックのコーヒーを買えず、ダメ出しをされるのは、全部神峰のせいか。
神峰って、そんな、貧乏神みたいな奴だったかって。
違う、と首を横に振る。絶対絶対違う、と何度も首を横に振る。
ひとりでここまできて分かる、こっそり後を尾ける誰もいやしないから、僕は堂々と来た道を引き帰せる。
「――――っ、ぷはぁっ」
最後の一小節を吹き終えて深く呼吸をすると、息をずっと止めた後みたいな感覚がした。
短いようで長かった通しの合奏に、今度こそ心をこめて全身で没入出来た手ごたえを感じたし、
何より雄弁なのは、指揮台で谺先生の左手が示すOKサイン。
神峰が居なくてもやってやると、ことさら意識して一心に演奏したら、なんとか好転したらしい。
いない神峰のことを考えて、いらぬ不幸に見舞われて。
そして神峰がいなくても、結果、ひとりでも僕はちゃんと出来た。
だけど神峰――ひとりでできた今のこの音を、お前にも聞かせたかったよ。
「……ダメだな、僕。ひとりじゃ何も出来やしない」
彼が居ないたった一日でこんなに疲れてしまった、情けなくて額を拭うと、風邪でも引いたかって
くらい熱を帯びている。一人で二人分の働きをしたせいか、手汗もすごいことになってるし。
それは二人して手を合わせた後のようでもあり、僕はここにいない彼を今日、一番、人恋しく思った。