ひとりヒート

「できない」と、呟いたように聞こえた。

娘が身を置く吹奏楽部が、西関東大会で金賞の最終成績を納めたという、その翌朝。
ゆうべ遅くに帰宅した優奈は言葉少なで、晩ご飯にもほとんど手を付けずバスルームに逃げ込んだ後は、
普段の長風呂もそこそこに、気付いた時にはもう二階の自室に引き上げてしまっていた。
よっぽど、疲れが溜まっていたのだろうか。
鳴り続ける携帯アラームの音にも眉一つ動かさず、お気に入りのクッションにしがみついて呟く寝言に、耳を傾けるにつけ。

「でき…………、な……い。…………ぐきゅう、」

乙女らしからぬいびきと腹の音を響かせたかと思うと、優奈は蚊を叩くようにアラームを止めてしまう。
いい加減に起こさなければ、朝ご飯を食べる時間さえなくなりそうだ。
妻はもう先に家を出てしまったし、ケチャップでハートを描いた目玉焼きや、温め直した晩の残りが冷めてしまうのは、もったいない
(『最近辛口なものを食べたがるから』と妻がはりきってこしらえた麻婆豆腐、とても美味しかったのに)。
とっとと声をかけて、起こさねば――ただその一歩が、踏み出せないのは。

「……、」

まぶしいほどの朝日が照らす横顔には、涙の流れて乾いた跡が、幾筋もみとめられた。
あくびのせいだと言い張るさまが、容易に想像できた。
つんとそっぽを向いてあの明るい髪を左右できつくしぼって、今から着替えるんだけど、と棘を含んだ声音までするようだった。
掛け布団からはみだす爪先は少し丸まっていて、パシャマと同じ色の薄紫のペディキュアは、夏休み限定だったのか、今は素足の色のまま。

そりゃあ―――そうだ。
毎日あれだけ朝から晩までどっぷり浸かっていれば、おしゃれに時間を割けるのも、夏休みくらいだろう。
まあ親としては、あと半年もすれば受験生なのだから、その情熱を多少なり勉強に分けて欲しいのも本音だったが。
でも、言えないよな。夢を見ながらうとうと唱える、魔法の呪文、聞いてしまったら。

「……でき……るように、……なりたい…………。」

できない、の裏返しには、できるようになりたい、があった。

細い脚ですっくと立ち続ける彼女を、教科書を開いた机の前に無理やり座らせるなんて、出来る訳がない。
私にも妻にも、できなかった。そして私達でもできなかったことを、優奈はあきらめようとしないのだ。
親馬鹿だとは痛いほど、それでも来年こそはと懸けたい、眠れる小さな天衣無縫。

Height Light

優奈、朝だぞ、と声をかけてみる。なで肩に手を置いてそっと揺すったら、生まれた朝を思い出す。
真っ白にくるまれて腕の中に抱かされた愛娘は、十七年という時間を掛けて、大きな存在に育った。
だから優奈を見守るのは、私達だけではなくなった。アラームを止めたはずの携帯電話が再び鳴りだす
―――着信、『舞』。友達の名前だったか。朝はもう、そこまで来ている。