君の名は指揮棒

秋風に混じるソースの匂い、落ちて踏みしだかれたクレープの可愛らしい包み紙、店番のいない教壇と
がらんどうの教室を横目に急ぐ。やがて引き戸が開きっぱなしの資材置き場に足を踏み入れた時、
ようやくオレは胸を撫で下ろした。今を時めく未成年たちは後片づけもそこそこに、
とっくに外へと駆け出したし。これでようやく一人静かに、思う存分に時間を潰せる。

『みなさーん、文化祭楽しんでますかー!?』

(……つーかここ、外からと校内放送と音がダブって聞こえてんな。)

腰を下ろして、冷たい壁に背中をつけた。
こんな埃っぽい場所に居座らずとも今なら校内は隠れ放題なのだが、クラス委員や教師とかちあった時に面倒だ。
誰にも気づかれないに越したことはない、そう結論づけて、
オレは『誰かがここに入ってきた時の言い訳』を早速頭で練り始める。

相手が生徒だったら、いかにも探し物をしている風を装ってやりすごそう。
もしも教師だったら不審がって探りを入れてくるかもしれない、
適当なものをひっ掴んで運び出しつつ入れ違いに出て行かねばならない。
そう、空の段ボール箱でも大げさに抱えて……いや、それだと手伝われた時にバレるよな。
やはり何かしら持っていかなくては。よし。これで完璧。

……完璧だろうか?
たとえばもしも、それがどちらでもなかったら、どうする?
戸を開け放ってオレを見つける役目が、持て余していたこの重荷を、高く買ってくれた彼だったら。

『1年4組、神峰っ、翔太あぁぁっ!!!』

二重にダブった音声が、窓の外とスピーカーから挟み撃ちに耳をつんざいた。

「ッ……!」

心臓が止まる暇さえ与えず畳みかける刻阪の怒号に、振り向きざまに状況を悟る。
彼の心を見極めようと必死に目を凝らしながら、オレは自分の空きっ腹を殴りつけていた。
昨日の一件から食欲が無くて、と言うか飲み食いする手持ちも大して無くてろくに食べていないのに、
視界に渦巻く心の洪水に吐き気がする。

「そんなもの、見せるなっ」

酸っぱい言葉を絞り出し、反射的に目をきつく瞑る。恐ろしいのは見える心ではない、
みるみるうちに苛立ちと呆れに裏返るイヤな心に、怖がる自分も今に染まってしまいそうなことだった。

離れた場所で目を背けたところで、オレもあの聴衆と同じなのだ。
『勧誘なんてもういい、ここでやる必要あるか、早く終われ』。
それが望んだことでなくとも、彼らは確かに、この気持ちを代弁してくれている。

刻阪を嫌いになりたくないのに。
他のことならなんでもするから、頼むから、関わったオレが悪かったから、許してほしくて頭を下げる。
どうしたら償えるだろう、賑わっている校内の屋台で何かおごるお金もないし――

『友達を部活に誘って、何が悪い!!!』

――割れんばかりに声を荒げ、刻阪はそう開き直った。

昨日はあんな澄ました風で、舞台に立っていたくせに。
そこには見たくもない心が広がると分かっていても前を向かずにいられない、そうしたら案の定、
オレに手を差し伸べて、もう観客じゃないからと自分と同じ場所に引き上げようとする刻阪を見つけた。
頭を垂れて乞うように、深く息を吸いこんで、秋空の下にサックスの音を響かせるたった一人を。

窓辺に立ち尽くしていると、つんと鼻の奥にくる小さな悲しみを感じた。
『お前の為に演奏するのは後にも先にもこの1回』、皆の前で有言実行、一発逆転に賭けると言う。
真面目な顔してとんだギャンブラーだ、負け犬に全財産を投じるような買い被り。

……それでも、最後の一曲を聞き終えたら、オレは彼にとって『指揮者』になるのだろう。
埃っぽい物置は膝を抱えるには楽だったけれど、勝ち誇るには狭すぎた。

段ボールを積み上げた脇を見下ろすと、『出口』と記された矢印型の看板が立てかけてあった。
部屋の入口を向くそれを倒さないよう、狭い室内をわずか身を縮こまらせて歩く。
胸を張って歩くには、もう少し広さが必要だ。

戸を開く前に、とりあえず制服の袖で湿っぽい顔を拭う。
潰したがった時間は変わらず流れていて、潰したがった目も相変わらずそこに二つついて機能している。
一人で使いきれない時間はこんなに余っているし、二つもこんな目を授かったのだ、
独り占めせずに片方くらい友達の為に使ってもばちは当たらないはずだ、と勝手に一人で肯いた。