トイレに神様。

個室トイレという空間が好きだ。
エレベーターに試着室にシャワールーム、単なる「個室」を求めるのなら他にもいろいろあるけれど、
誰の心も、鏡に映る自分も、貧弱な裸も見ずに済む―――消去法で行けば、残る逃げ場所はそこしかない。
だからオレは、今日も今日とてひとり洋式にフタをするのである。
落ち着いてじっくり腰を据え、腐れる気持ちを閉じ込めて。

腕時計を見ると、昼の休憩時間が終わるまであと五分ほど。
別に悪事でもないはずだ、人の気配がなくなってから腰掛けて弁当箱を開き、ごちそうさまでフタをして、
今度は受験勉強のために参考書を開いたくらいの立てこもりなど。

(つーか今、一人入ってきたけど。顔洗ってんのか?)

暖房のない寒々としたそこで他人の気配に気を取られ、
ページをめくり損ねた手がつい、ぶ厚い参考書と単語帳を取り落すくらいの凡ミスなど。

「うわっ、」
「え……どうかされましたか?」

時は中学三年の冬、鳴苑高校入試当日。
ばさばさと音を立てて落ちた本を拾おうと屈んだ瞬間、
目の前のドアをノックして不安そうに問う声に動けなくなってしまった。
 
 
(神も仏も無え!)

繰り返すがオレは個室トイレが好きだ。
それゆえに熟知し、そこに居座る時にもっとも警戒するのが『所持品を落とさない』ことである。
まれに聞く携帯電話の水没などは当たり前の大前提として(むしろ携帯していない)、もっと怖いのは
①落とすことで音を立てる ②かつドア下のすき間からそれが外へと転がってしまう、それらなのだが。

「あの……、単語帳、落ちたよ」

まさかのダブル二枚抜き。

(うわあ……馬鹿か。すごい馬鹿か、自分!)

小奇麗なタイルの壁に左右髪質の違う頭をぶつけたくなる衝動に駆られるが、
そうするまでもなく、詰め込んだ知識はもう跡形もなく吹っ飛んでしまった。
中学三年間、部活にも入らず友達と遊び歩きもせず、家の事情で県立を目指した結果がこのありさま。
こんな所でギリギリまで足掻いているなんて知れて、ドアの向こうで次の言葉を言いあぐねている彼も、
きっと必死に笑いをこらえているんだろう。畜生、笑いたいのはオレの方だ―――

「……あは、」

開いた単語帳を拾うかすかな音と、閉塞的な空間でかすかに反響する笑い声に続けてそいつは呟く。

「こんな所で頻出の復習が出来た!
僕も英単語苦手なんだ、眠くなるから顔でも洗わないとやってらんないし。
というか、大丈夫? もうすぐ時間だし、体調が悪いんだったら先生呼ぶけど」

「……、」

(心が見えないというだけで、一秒、気遣いを疑った。)

しかし見えない相手に嘘をついて、床に捨てられたような単語帳を拾って、こいつに何の得がある?
現実逃避にトイレに逃げて、何が悪いことになる?

「――悪くねェ。大丈夫だ、すぐ行くから、……ありがとう!」
「どういたしまして。単語帳は手洗い場の脇に置いとくね、それじゃお互い、頑張ろう。」

参考書を拾い上げてから個室のドアを開けるのと、トイレ入り口のドアを閉める音が重なった。
手洗い場の横には、幸い汚れなかった単語帳が一枚もばらけずに紙幅をそろえて置かれている。
勉強道具はもう落とさないようまとめて鞄にしまい、急いで手を洗う。

ドアノブを回して廊下に出ると、
自分が受験番号を割り振られたのとは別の教室に入ってゆく、一人の男子の後ろ姿が見えた。

遠目にも分かる、さらさらとしたクセのない黒髪。多分、自分と大して変わらない背格好。
声を聞きながら記憶も探ったけれど、制服はもちろん別の中学校指定のものだ。
無論、それは彼がそこにいただけで、心配してくれたその人だとは限らない。

「……あ。せっかくなら顔見て礼言や良かったな。友達に、なれたかも」

せめて心を見なかったのだから、たったそれくらいの妄想は、馬鹿なオレにも許されるだろう。

そして――馬鹿なオレにもサクラサク。
無事合格して入った学校でも、オレは一途に個室を愛した。
やむを得ず個室を追い出されて逃げなくちゃならない時は、仕方なく屋上へ赴いた。
鍵はかけられないけれど、心を見ずに済むのは楽だ。
ちょっとくらいうるさくたって、人の声でないだけマシだ。

「……何の、楽器の、音だろう……?」

ドアの向こうには、今日も今日とて誰かが居る。
ドアを隔てずにすらすら言葉を交わせた理由は、
単語帳になんて書いていなかったせいで、オレも彼もさっぱり暗記していなかった。