コンクール全国大会を目前にした今日、指揮棒をメンテナンスに出してみないか、と刻阪に勧められた。
目立った不具合はないものの、一年の苦楽を共にしてきた武器なのだ。備えあれば憂いなしということで――
指揮棒を預ける半時ほどの間、楽器店の入っているモールを二人でぶらついていたら、その人影に気が付いた。
黒いランドセルを背負って雑貨店の前を行ったり来たり、今日はバトンを持ってはいないか。
「よお、尊、久しぶり。ホタル祭り以来……って、どうしたんだそれ!?」
「わっ、神峰さんに、刻阪さん!その節はお世話に……あ、こっちは、美和に送ってもらったんです!」
細腕が抱きしめるものを見てオレ達はそろって青ざめるのに、尊は平気な顔でニコニコしている。
ひしゃげて外れた金属の留め具に、大きな傷の入った蛍石の装飾。あの日プレゼントしたはずのバレッタが
どうしてぶっ壊れた状態で手元にあるのか? 恐る恐るわけを聞くと、尊はあっさりと話してくれた。
美和ちゃんがアメリカでの生活にも慣れ始めた頃、事件は起きた。
現地で仲良くなった友達と街中へ遊びに出かけた帰り、両腕をタトゥーで埋めたいかつい男が立ち塞がり、
財布を出すように脅されたのだ。ちょっと早道をしようと、路地裏に足を踏み入れたのがまずかったらしい。
『警察、呼びますよ。親にも、今すぐ、電話するから!』
たどたどしいながらも美和ちゃんが友達をかばって前に出るのと、怒った男が拳を振り上げるのは、ほぼ同時――
しかし悲鳴を上げて飛び退いたのは、なんと暴漢のほうだったという。
髪を掴んで引き倒そうとした瞬間、バレッタの留め具が外向きにはじけ飛び、割れた金具が指先を裂いたのだ!
外れたいくつかの部品が下水溝の隙間に落ちる水音で、すくんでいた二人もはっとする。
目の前には傷ついた手を押さえてうずくまる男、逃げるならこの隙しかない。
もちろんヒビのはいった蛍石を急いで拾い、ハリウッドのヒロインよろしく、堂々とアドリブを演じ切ることは忘れずに。
『あなた、運が悪かったね。よりにもよって、ジャパニーズ・ニンジャの家に代々伝わる、秘伝の飛び道具に
手を出すなんて。いい? これに懲りたら、二度と、くのいちを敵に回そうなんて考えないこと!!』
無論この後、学校で「ミワ、君は日本から来たクノイチなんだって?」とちょっとした人気者になり、
トラブルにも一切巻き込まれていないのは、言うまでもないとか。めでたしめでたし。
「す、すげェ…! 美和ちゃん、強ェなァ!!」
「はー、聞いてるだけでドキドキした……。アメリカンジョークが、もう板についてるじゃないか」
「ボクだって、聞いた時はヒヤヒヤしましたよ。それで買ったお店に一応問い合わせてみたら、
不良品だからすぐ新品と交換して、現地宛てに送る……って言ってくれたのを、美和が断っちゃって、」
“だって、尊がくれたものだし、守ってくれた証だから。
時間とお金がかかっても、傷を完全に消せなくてもいいから、修繕してもらえませんか?”
「……へえ、尊くんも隅に置けないな!」
一通り話し終えて意識してしまったのか、だんだんと赤面してうつむく小さな頭を、刻阪はわしゃわしゃと撫でてやる。
姉にされるのとはまた勝手が違うのだろうか、しばらくいじられて参った尊は
(以前の陰はもう見えなくとも、心がお手上げしている!)、
じゃあ電話で予約してあるので、とそそくさお店に入っていく。
小さな背中を見届けたら――刻阪がとんっと前に出て、二歩先、オレの真正面に立った。
目映い蛍石でも見つめるような、わずか細めた目を合わせて。
「その指揮棒も、いざという時、神峰を守ってくれればいいんだけど。」
「ええ……暴漢に絡まれた時にこれが役立つってどんな状況だよ」
「①まずクナイのように構えます ②投げます」
「おおージャパニーズ忍者!って出来るか!」
「まあまあ、武勇伝も聞けて、いろいろと緊張も和らいだところで。……さ、次はどこのお店覗く?」
言ったか言わないかのうちに抜け駆ける、その気まぐれな背中を見失わないよう。
胸に隠し持つ宝物は、ぎゅっと制服の上から手を当てても、弾けて壊れたりしないけど。
(……お前、まだ気付かねェのか?)
いざという時、守るも何も――刻阪がくれた指揮棒は、もう何度も、何度も、守ってくれたじゃないか。
怒りの炎に焼き尽くされそうな時も、涙の水底に溺れそうな時も、鋭い刃を喉笛に当てられた時でさえ、
いつでも指揮棒は最後の砦、オレの心を守ってくれた、はずだ。なのに銀色の心の欠片が宿る指揮棒が、
あのバレッタみたいにボロボロに映るのは、悲しいかな、オレにしか「見」えていないようで。
(メンテナンスに出そうと提案される前から、なんとなく察してはいた。
度重なる危機を迎える度に、指揮棒の傷は目に「見」えて増えていくのに、刻阪は何も言わないから。)
……お前に心が見えてて欲しい、そう悲しく笑う顔は、見ないでほしい。今はまだ、おおっぴらに伝えるには
忍びないエゴを抱えて――危うい心をぎゅうぎゅうに箱詰め、飛び道具のよに、宝物のよに、隠し持った。