Happy Boy(s)&Girl(s)

もしもわたしから吹奏楽を取ったら、後には何が残るのだろう。

「今日の部活は休んで、一日、頭を冷やしてみなさい」。
呼び出された準備室で、譜面に無数の指示を走り書きながら、顧問の先生は静かにそう告げた。
一瞬何を言われたのか理解出来なくて、次の瞬間で昨日のコンクールのことだと理解した。
すみませんでしたと即座に頭を下げれば先生は黙って頷いたけれど、それでも一応念押しにか、目を合わせて言葉を継ぐ。

「天籟や竹風に直接言われた訳じゃない。曲山がその場を収めたってのもちゃんと聞いてる。
……たださすがに、他に何人も居合わせて、見ていたらね。連盟から、注意があった」
「………………本当にすみません、後悔してます。あんなこと二度と言いません。……失礼します。」

重ねて頭を下げて準備室を出る。どうしようか迷ったが、こればかりは避けられまいと音楽室の扉を開けた。
集合時間の少し前、おのおのチューニングを始めていた手を止め注がれる視線に、わたしはまた自然と爪先を見る格好になる。
そうして本日三度目の「すみません」を添えて今日の練習を外れることを申告すると、
今まで演奏について最も対立してきたパートメンバーの同級生が、そっぽを向いて呟いた。

「つか、びっくりするじゃん。うちが心の中で思ってたこと、
ヨソにまるまるぶちまけちゃって、止めるヒマもなかったよ。……明日は、来なさいよね」
「…………うん、」

彼女に対して初めて口にする『ごめん』を口ごもって、後にする。
一番仲が悪いと思っていた相手の、決して不味くはない、誘い文句を背にして。

全員が何かしらの部活に属すためにがらんとした尞には戻りたくなかったわたしは、
結局学校を出て、行くあてもなくふらりと電車に乗っていた。
天籟にも竹風にも鳴苑にも向かわない、まったく別の方角行きの初めて乗る路線だ。
いくらかラッシュ時を過ぎた月曜日の午前、楽譜の詰まった鞄とフルートケースを
抱えて電車に揺られていると、叱りつけるでもない、あの先生の苦い説諭が、舌の上でリフレイン。

――気付いてしまったのだ。部活を休んで頭を冷やせと言われ、
こうして吹奏楽を取り上げられたところで、わたしに何も残っていないことに。

実力が及ばず打ちのめされたのを、腹いせに他人に八つ当たりなんて。
団体競技であることも副部長という立場も忘れて突っ込んで、きっと学校の名前にも泥を塗ってしまった。
いくら上級生を思って出た言葉とは言え、それは彼らの慰めになるどころか、
あんなに辛い味の「もういい」を言わせたのだ。

これが世界一の馬鹿者でなくて、なんだろう。自分はここまで救えないダメ人間だったろうか。
これじゃ、まるで逆じゃないか。
わたしから吹奏楽を取ったら何も残らないのではない、わたしみたいなどうしようもないワガママでも、
ただ吹奏楽をしているというその尊さで、人前に立たせて貰えていただけなのだ。

「……うぅっ、……」

ぎゅっと唇を噛んで、前髪を整える振りをしながら潤む目元を慌てて拭う。たとえばキョクリス先輩なら、
引退して吹奏楽を取っても、色んなものが残るはずだ。部内の空気が冷えた時には緊張をほぐそうと情熱を傾け、
また皆がヒートアップし過ぎた時にはクールに動く、ムードメーカーでエンターテイナー。
彼が居れば、何が何でも上手くいく……その人はしかし、わたしにこの先を託すと言う。

半袖では薄ら鳥肌の立つほど冷房の効いた車内で、密かにつばを飲みこんだ。
少し喉の渇きを覚えた。わたしが今まで水のように飲み干してきた音は、当たり前のものではなかった。
ひたむきに手を伸ばし続けて、やっと得られる潤いだったのに。

考えなければならない。頭を冷やさなければならない。ハッピーになりたければ、ハッピーに、したければ。
それで何駅通り過ぎたか――車窓から見えた喫茶店の看板にふっと得たアイデアに、
わたしは財布の中身をよく確かめてから、意を決して電車を降りた。

翌日――部活に出させてもらい、通しの合奏も終えたあとの、静かで無味な音楽室。
夏休みの盛りであっても部員全員が出席する熱心さはほめられたものだが、
解散後はいつの間にかキョクリス先輩と二人きりで残されてしまうのは、ただの偶然でもないだろう。
どうやら部内で、わたしは彼といい関係だと誤解されているらしいのだ。
椅子に掛けて楽譜を目で追う先輩は、誰にも優しいだけだと言うのに……
薄紫色に染まった舌を唇のすき間に覗かせ、涼しげに微笑んでみせるのも、彼の得意技で必殺技。
(今はわたしの舌も、同じ色に染まっているはずだ。)

「やっぱり聖月は、優しいですね。ぼくの目に狂いはありませんでした。」
「……たかだかかき氷一杯で、大げさにしないでください」

わずかに青い水滴のついた手元のカップを覗きこみ、わたしは呟く。必死に知恵を絞って出てきた案は――
文化祭で使う時以外は寮にしまってあるかき氷器(と氷)を拝借し、部活動時に差し入れることだった。
それも、寮母さんに教わって手作りしたフルーツソース付きで。ザクロにパイナップルにブルーベリー、
駅ナカのちょっといい果物店でなけなしのお小遣いをはたいたら、帰りの電車賃はギリギリだったものの。

自分なりに考えた。わたしから吹奏楽を取っても、音を味として感じられるこの舌は残る。
未完成な音には不味さが伴う、だったら、逆のことも出来るんじゃないかって。
コンクールで奏でたソニ学史上最高のあの音を、味にして、迷惑をかけた皆の心にお返しする試み。
つぶらに実って熟した音、ほとばしるような甘い音。そして、頭を冷やせと言うのなら、冷たいもので。

(……まぁ実を言えば、おやつの作り方を寮母さんに習うことで、
まれに朝ご飯に出る安っぽいダマダマなホットケーキへの不満を、遠回しに訴えようって思惑がなかったでもない。
だけど白砂糖をまぶした果肉を煮詰めている最中、どこにでもいる“お母さん”じみた顔で、寮母さんが苦笑うから。

「たまには、こんな贅沢も良いわねえ。
ほら、いつもは予算も厳しくって、あんまり凝ったもの作ってあげられないけど。」

……一年半通って、気付かなかった。そう言えばこの学校指定の制服は確か有名デザイナーの誂えで、
校舎や寮の設備も近隣の高校ではずば抜けて整っていて、何より部活では個人に行き渡るほどの楽器もある。
どこかにしわ寄せが行かない方が、不思議だろう……気の利いた言葉の代わりに、わたしは鍋の中身を目測で量ってみる。
寮母さんにもおすそ分けするとして、なんとか足らせようと一生懸命計算して。)

そうしたら――何度となく意見を戦わせてきたあの子の顔も綻ぶ、甘くてハッピーな差し入れを作れた。
別のパートの先輩には「吹越、こういうのも出来るのか。また作ってよ」とリクエストされ、
同じパートの後輩には「来年の夏は作るヒマないですよ。全国突破してますから!」、とも言われた。

「本当に美味しかった。ごちそうさま、でした!」

ちびちび味わっていたカップを置いて手を合わすキョクリス先輩に、おそまつさま、と短く返す。
あの大きな手のひらはもう、コンクール用ではなく昨日から練習を始めた新しい楽譜をめくっている。
基本的に賞レースにしか参加しない方針を転換し、学校の内外を問わず演奏会を増やすことで、部員全員が一致したのだ。
今までのやり方では限界があったから、ソニ学を1から作り直す。
つまり、例年通りならあとは引き継ぎくらいで引退してしまう先輩とも、もうしばらくの付き合いってこと。

「……一昨日は、本当に、ごめんなさい。クリス先輩が止めてくれて、助かりました」
「いいえ、聖月の気持ちは分かってま…………えええええ今クリス先輩って言いましたか!!? ねえ!!」
「ああもうキョクリス先輩ウルサイ! ていうか手! 手が取れる!」
「嬉しいです! 今日は最高にハッピーな日だ!」

ハッピーになりたいと願った人は、なれなかった人は、両手で求めた握手をぶんぶん振って幸せそうにはしゃいでいる。
まったく……、周りが囃したてるほど、わたしにも分かっていないのだ。
この人とどうこうなりたいなんて、一度も考えたことはないし。くだけた扱いに慣れなくてビックリしても、
先輩にとっちゃハグなんて挨拶みたいなもので、何より、甘やかしてくれるその言葉に、恋の味は感じない。

ならば、わたしから吹奏楽を取ったら、わたしにとって、キョクリス先輩は何になる?
上下関係における尊敬。それとも身近な親愛。見守られる無条件の安心感。
どれもこれぞとピンとこないが、並んでかき氷食べて、笑いあうくらいの距離感は確かなわけで。

冷たくしたくない、冷たくされたくない、それでいて熱っぽくはない関係性。
舌の上の薄紫色が消えても、思い出は色づいたまま、胸の奥に残って欲しい。
音楽室を吹きぬけて行く、夏の風とともに――初めてちゃんと呼んでみた名の、甘やかな響きとともに。