遠距離トオク

決定を下さなければならない。
離脱か、残留か、僕の中で結論を出すのだ。『全国金賞を獲る』という確固たる意思のもとに結成された、
この大いなる集団で生き残るか、それをかなぐり捨てて行くか。

フランスに住む姉さんからようやく折り返し電話があったのは、
件の国民投票での離脱派の勝利確定が大々的に報じられた翌日の夜だった。
聞いてみれば、空にはためくユニオンジャックを映しては、
やれ歴史が動いた、時代の変革だのと騒ぐワイドショーはチャンネルを変えてしまえばいいが、
同じ楽団に所属する仕事仲間なら、口をふさぐ訳にはいかない訳で。

「遅くなって悪いわね。熱心な残留派だった友達に泣きつかれて、朝までなぐさめてたのよ。パブで」
「分かった。飲み会ならしょうがない」
「分かってないぞ全然」

外国のお酒のほろ酔い加減、電話線越しにゃ匂いは伝わらないけど。

左手は携帯を耳にあてたまま、それはおつかれ様、と右手でペンを走らせる。毎日の部活で神峰がもたらす抽象的な指示、
それらを家に帰ってから楽譜上で消化していく作業は、決して嫌いではないが楽でもない。
専門性においてはほぼ初心者であり、かつ心が「見」える唯一のスキルに基づく以上、
二人の間に生じる理解の誤差はおもに僕が埋めていくしかなく、
運悪く姉さんにも協力を仰げなければ――心だけでも海外に高飛び、逃避したくなる日もあるってこと。

「むしろ、姉さんの話の方が気になるな。確かに大ごとだけど、泣きつくほど?」

雨が降っても飲む理由になる酒豪には愚問だろうが、ある意味面白可笑しなエピソードを期待して先を促す。
すると返ってきたのは、意外に切実な内容だった。

「あの子自身は生まれも育ちもイギリスなんだけど、恋人がポーランド出身なの。
それが離脱って、お互いの国を自由に往来できなくなったら、デートもままならなくなるじゃない」
「うーん……、あんまり詳しくないんだけど、国際結婚とか、しないの?」
「出来りゃ、してるわよ。いろいろ事情があんの」

さすがにぴしゃりと叱られて、僕は思わず肩をすくめる。
さて、あの子とやらはもしかして、未成年で投票権がないのだろうか?
いや未成年をパブでなぐさめてたまるか、だったら親に反対されたり、国籍の違いを気兼ねしているとか。
あるいは相手が離脱派で、相容れない理解の誤差を前に足踏みするしかない、どこかの誰阪さんみたいに?

「響ぃ、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ。聞こえてる……。電波良好」
「じゃ、昨夜の用件は。困りごとならすぐ言いなさい。あたしに出来ることなら」
「……」

僕に出来ることなら――僕が神峰と分かり合うために出来ることを、聞こうと思っていた。

(お酒が飲めるのと投票権、イギリスだったら、十八歳からだっけ。
恋が叶わないかもしれないと涙する友達をなぐさめるなら、やっぱりちゃんと、イギリス式英語を使うのか。
一晩つきあった明くる朝には、飲み過ぎてかすれた声なのに、僕の心配まで忘れないで。)

折り返す電話がすぐになくっても、別に怒ったりしなかったんだ。
でも、きっと僕も、連絡のつかない姉さんを心配した……。

「響? 話す気分じゃないなら、手紙でも」
「……いや……。なんかもう良くなった。多分。ありがとう」
「ああん? ナメた口きいて、電話線で絞め落とされたいのかしら」
「コードレスの時代で本当に良かった!」

夏の盛りもまだだってこの梅雨どき、聞こえるか聞こえないかの舌なめずりがぞっとしない。
都市伝説のメリーさんだって、こんな暴力には訴えまい。
いつでもあなたの後ろにいるのは、いつでも背中を押すためだって、プラス思考も極まれり。
上出来な姉からのナイトコールを日夜数えて、次に家に帰る時まで――不出来な弟は、残留を選んだ。

離れ離れて、後で泣きたくないのだ。神峰は怖くないから。どころか時々すごく面白い。それにいい奴だ。
ほら、こうして夜遅くに電話をかけてしまってもコンマ三秒で出てくれる。
心が見えないから電話は苦手だと、だから克服したいとくそ真面目に冷や汗をかいてた、あの眼差し。

「あ、刻阪……?
昨日も今日も、お前が浮かねェ心してんの、ずーっと気になっちまってて。先に聞かせてくれ。大丈夫か?」

肝心の用件を後回しに、心配そうな、かすれた声。
まさか神峰、僕と似たり寄ったりな不安を抱えて、ヤケ酒でも飲んだんじゃあないだろうな?