Million Thanks!

「ねえサクラ。例えば手を使わないで演奏できる楽器って、世界にどれだけあるのかな?」
「んだよ実理。お前もアイツらに影響されて、音楽やりたくなったのか?」
「だね。見てたらなんか、混ざりたくなっちゃった!」

車椅子を押してもらいながら進む病院の中庭には、二人以外に誰も居なかった。
指揮者志望と幼馴染達を見送った後。夕涼みがてら話でもしようと実理に誘われ、頷いた矢先のその問いだ。
オレでも扱える楽器についての話かと早とちってはぐらかしたのだが、ではなく彼女は本気でその気らしい。
顔も見えない会話だけれど、口から出まかせでないことが分かるくらいの時間はともに過ごしてきた。
細腕に力を込める気配がして、ぐん、と車輪が回る。

「演奏聞いて、みんなが『桜の音』の話してた間も、色々思い出して、考えてたんだよ。
私は最初から、ピアノを弾いてるサクラを見たくて、早く腕が治って欲しくて――勿論今でも、
ちゃんと本心だけれど。そればっかりで、“弾かないサクラ”のことは、ちゃんと見てたのかな、って」

「……おい、ちょっと待て。勝手に結論出すな勘違いしやがっ、ッ」

しまった、混乱するあまりろくでもない言い方になってしまう。しかし足元に寄り添う影はじっと返事を
待つのみで、肝を冷やしたオレは、ごめんと短く詫びてから反論した。

「違ェよ、なんだその見当外れ。オレは誰かに期待されるのは、本当に嬉しいし、そうして欲しい」
「うん。でもそれはサクラの『こう思われたい』で、私の『こう思った』とは、ズレてるよね」
「……」
「サクラの怒った顔も、歌ってる姿も、私初めて見たのに。知らないことが多すぎて、勘違いもしちゃうよ」
「…………」

芝生にはみ出さないように小さな段差を乗り越える、その二秒で畳みかけられる。
そんな頑固さはこそ初めて見た、静かで淡々とした言葉を、正直突っぱねたかったけれど……、
悲しいかな、何も言えないのは、ジグザグな視界のぶれに、車(椅子)酔いしかけてるからだったり。

ひ弱な腕と頼りない視力で一生懸命に重い車椅子を押してくれるのはいいが、腰の落ち着かない乗り心地は変わらない。
ずっと変わらない。車椅子のグリップを握るのと同じ両手で拝んで、弾いてくれと求め続けた彼女は、
しかし今日――キーボードを前に座る“弾けないオレ”を見て、弾いてくれとは願わなかった。
下手な歌で勇気が出たと、手術を受ける決心がついたと、涙ぐんで笑っていた。
……ど畜生、あんなに劇的な心変わりも、壊れた塔も、全部マエストロのおかげだってか!

「クソ、参ったな。これでも心配したんだぜ、神峰君に探り入れられた時、お前はキツくなかったのかよ?」

「うーん……、私の気持ちは、誰かさんが先に代弁しちゃったからね!
それに言ったかな? 目を悪くしてから私、人の話し声や音に敏感になったの。喋り方ひとつでも、
うわべか本音か、なんとなく察せたり……あの時の神峰さんの声、研ぎ澄ましたみたいに真っすぐだった。」

真っすぐな彼女の声にすぐに返事をするのは癪で、代わりにすんと、空気を嗅いだ。
遠目に見える並木はもう葉桜だけれど、もしも共感覚が健在なら、その声音はつんと漂ったかもしれない。
初対面の人間にも心を許せる彼女にとって、自分だけが例外じゃないと思い知らされて。

「……実理、ちょい正面に回ってくんね。目ェつむって、心理テスト」
「? なになに、面白いこと?」

かがんで高さを合わせてくれた目線の先で、何の疑いもなく瞳が閉じられる。
息を殺して、半身を前に傾けた。車輪の下で砂利が小さく鳴る。花の匂い。夕風に洗われる葉擦れの音。
いつもの診察では何かの機械で眼球を覗くなりするのか、薄いまぶたに薄く残る押し付けた跡に気が付いた。
……隙だらけだ。こちらが手を出せないのを分かってるくせに。
無邪気すぎるその優しさに、ちょっと腹いせしたくなる。

――こつん、

「――わぁ! 何するのいきなりっ?!」
「いっ……てェな! 見かけによらず石頭しやがって。大体人の喋り方でウソが察せるんじゃねェのかよ」
「サクラの言うことなら信じちゃうでしょ?! 信じられない!」

全身の力を振り絞ってかました(へろへろの)頭突きに、実理は涙目でめちゃくちゃに喚く。
だけれどその手がおでこをさする前に、前のめりになったオレを強く支えてくれたのは目撃した。
悪いことしたと謝ると、どうせ勘違いしてますからねと拗ねられたが……まあそのふくらませた頬も、
綺麗に手入れされた花壇から舞い寄ってきた蝶を見るなり、すぐに機嫌よく綻んだのだけれど。

振り仰げば、白く連なる病院の棟が夕暮れの残光に照らされる。……そう言えば指揮者志望曰く、
塔の入り口で行く手を阻んだというオレは、ちゃんと大事な人を守り抜けたのだろうか?

「つーか、神峰君も気が利かねェよ~……、
目立てとか強くとか散々オレを指揮しといて、いざ歌い出したら素で『歌うんだ?!』って顔でビビってさ。
そんなに人を舞台に上げてェんなら、ハーモニカでも用意してくれりゃ良かったのに」

「んふふ。でもさ、初心者に
はいどうぞってハーモニカ宛がわれて、大人しく言うこと聞くサクラじゃないでしょ?」
「くく、言えてんな!ああいう後先考えねェとこが初心者なんだよ、アイツなりにわきまえてんだろうけど」
「へえ。だったらサクラが教えて、育ててあげたらいいじゃない。これからだよ、まぁだ」

仰る通り、今度は頷ける。下手くそな歌を高らかに歌いあげただけで、どうして役目を遂げた気になる。
オレは歌手じゃなく、演奏者だ。もう一度ピアノを弾きたいと願う、けれど弾けなくてもそうでありたい。
神峰君がオレを演奏者として見てくれたように――実理がその目で、見てくれる限り。

「ったく、どいつもこいつも、面会だ演奏会だって引っ張り回しやがって。オレは見せもんじゃねェんだぞ」
「ふふふ。見ていたいんだよ、目が合いたいの。だってかっこいいからね、サクラ!」

……ただし、今だけは。このにやけ顔が彼女の立ち位置から見えないのが、本当にありがたくって!

(病院で名前を呼ばれるのは普通のことって、普通じゃない胸騒ぎに言い聞かせた。)

音楽を始めたおかげで、音楽が出来なくなったせいで、もう数えきれないほど名前を呼ばれた。
かつて弾き慣れたピアノに向かうのと同じ高さの車椅子の座上から、どれだけ真っすぐな声を張り上げたら、
地球一周――真後ろに立つ彼女の心まで届くのか、途方もない距離を思うと、ほんの少し切なくなった。