ある朝目が覚めたら、管崎咲良が眠っていた。
ピアノを弾く時の正装のまま、乾いて寂しい風の吹く荒れ地に横たわり、すやすや寝息を立てている。
これは夢か、寝惚けているのだろうか。目をこすると、何か滴るものが指先を伝うのに気が付いた。
ついで、ぱちぱちと頬を叩く粒に空を見上げる。雲に覆われた暗い空から、にわかに雨が降り出したのだ。
「おい、……おい、起きないか、咲!」
あのなで肩は、いくら揺さぶってもうんともすんとも言わないでぐらつくだけ。どころかぐうすかと
いびきさえかく始末だが、こんな場所に放ってもおけまい、仕方なくやつが着ているチョッキの裾を
ひっ掴み、冷たい雨に濡れはじめている半身を抱き起こす。脱力した身体はすぐに両腕からずり落ちて
背負うのもひと苦労で、やむなくオレは彼を楽器のように胸もとに抱きかかえ、運んでいく。
「……?」
思ったよりたやすく持ち上がる、まるで何年も身体を動かしていないかのような軽さに違和感を覚える。
……ぐずぐずしていてもびしょ濡れだ、不自由に水たまりを避けながら歩き、やがてオレはちっぽけな
シェルターまでたどりついた。見たところドラム缶より一回り大きいくらいだが、
別にそろって身を寄せ合う必要もないからな。裾の長い外套を着ている自分は、外に居ても雨をしのげるし。
落ち着きのないこいつのことだ、急に伸びあがっても身体をぶつけたりしないように、中央に横たえて。
そうして雨が降り込まないよう重い扉を閉め、起きたら助けた恩でも着せてやるかと悦に浸っていたら――
ふと視界に入った水たまりの中の自分と、血走った目と目があって、全ての顛末を思い出した。
浅い夢から覚めきって、現実を直視させられる。
まるでついさっき轢かれたかのような、死に損なった自分自身がそこにいた。
次の日の朝は、早かった。
オレよりも早く目が覚めたらしい咲が、内側からシェルターをガンガンと蹴って声を張り上げていたせいだ。
ひと晩降り続いた雨音よりもやかましいそれに眠りから叩き起こされ、恐る恐る近づいてみた外壁には、
歪んで腐れかけた顔が映りこむ。罪を犯した自分に、合わせる顔があるはずもないのに。
「おい、どこの誰だか、返事しろ! こんな狭ッ苦しいとこに閉じ込めやがって!!出せ!!!」
「っ……、ダメだ!まだ雨が降っている、から、そこで休んでろ!!」
苦しまぎれに言い逃れ、静まり返る一瞬にしまったと思ったが、時すでに遅し。きっと殴る代わりにだ、
ぶ厚い壁を滅茶苦茶に蹴り飛ばしながら、馬鹿でかい声は密室の中から怒鳴り散らす。
「その声は、涼だな――涼だろう、涼、涼!!!
オレは桜の音を探しに行くんだ、舞と美子と壬と、勿論、テメェも一緒にだ!!
それを雨だから休めって、えっらそうに、なんなんだ!? 南の島の大王かなんかか!!?」
うるさい、と、ほとんど絶叫していた。反射的に拳で扉を叩き返し、我に返って後ずさる。
動揺のあまり息も絶え絶えに、うるさい、と再び張り上げた声は急激に強まった雨音にかき消され、
ほとんどはたくように顔を拭えば、雨粒とは違う、鮮やかな赤色の滴がべったりと指先に付いてきた。
……雨に流れない返り血に、自分のしたことが恐ろしくなった。
息苦しさに無意識に胸を押さえる、その咲を突き飛ばした左手だって、今すぐ切り落とせるものならば。
だけど“桜の音”へたどり着かない限りは絶対折れない、彼の代わりをするには、汚れた手であろうとも。
「……。」
扉に力任せにぶつけて崩れた腐りかけの左手、その皮膚と肉が剥がれ落ちた下から、鈍く光る骨組みが覗く。
笑ったり楽しんだり、人間らしいことを出来るだけ忘れようとした身体の、金管楽器を粘土で肉付けしたみたいな造りに
――自分の正体に、見抜かれた才能とはこのことだったのかと、分からされる。
その日から、永い間――オレ達は衝突し続けた。
夜は疲れてどちらからともなく眠ってしまっても、朝は必ず、咲の怒り声に起こされる。
顔を合わせれば言い争っていたオレ達が、顔を合わさないことが原因でに言い争っているなんて、
美子や舞、壬は、どんなに呆れてしまうだろう。やはりこの男を輪に誘ったのは間違いだったと楽器を取り上げられて、
そうしたら自分には何も残らなくて、失望した彼らのもとから、本当の意味で去れるのか。
諦めるのは、簡単だ。今日も夕方までやりあって、ついに咲が呟いた言葉くらい、呆気なく。
「あー分かった、分かったよ、そんなにオレのことが嫌いか!
じゃ寝るわ、おやすみ。“桜の音”にたどり着いたら、起こせよなァ。」
(着くまで寝ていていい、なんて、別に優しさを気取った訳じゃなかったけれど。)
言うなり身体を投げ出す気配がして、それきり次の言葉はなかった。次の朝も、その次の朝も。
――やっと静かになった世界で、オレは今度こそ、吹くことのみに集中出来た。
どうやら心を乱されず吹いている間だけは、オレの姿はわずかに人間らしくあれるらしい。
追い払っても追い払っても後から湧いてくる罪の意識には抗えなかったが、それでもそんな汚い景色を
咲に見せないで済むのだからと自分に言い聞かせて、あんなに美しかった“桜の音”を求め続ける。
ごちゃまぜの思い出がぶり返して急に世界が真っ暗になるのも、シェルターの中も同じことだ。
……雨にも流れない返り血は、さすがに、剥がれ落ちた楽器の破片ででも覆い隠すしかなかったが。
「……」
歩きづらい外套の長い裾は、ここから他所へ逃げないように、身体を縫い止めているみたいだった。
咲に近づけないように。それとも、咲から逃げないように、か?
どちらにせよ、降りしきる雨を吸って重くなるから、こんな緊急事態からも逃げ遅れてしまう。
目的地に着くまで寝かせた人を起こそうとする、指揮棒を携えた、神の手が迫る。
「――邪魔を、するな!!!」
激しく踏みにじられる水たまりの中に映りこむのは、剥き出しの才能で武装した自分自身。
丸腰の相手で勝ち目はあると殴り掛かったが、やはり音で身体を固めたもう一人が乱入し、
道を阻まれたのは大きな誤算だった。オレが彼を無視した間も彼はオレを見続けて、対抗する方法を打ち立てたのだと。
着くまで大人しく眠ってたまるかと、声ごと息を吹き返し。
彼が弾けなくても、オレが弾かなくても、今だけはお互いに、殴るためにこの手がある。
悪い夢から覚ましてやるのだ、ちょっと気つけに頬に触れるだけ――無論、手加減はしない。
どこに到るかも分からない雨の中、追い求めた同じ目的地へと、音をひた走らせながら。