ロートーン・ロード

後輩たちの居残り練習にしばらく付き合ってやった後、
同じように帰り支度をしていた美子に声をかけ、家の近くまで送ることにした。舞は咲と神峰との音合わせの
ためにまだ明るいうちに帰ったし、常から気が強いとはいえ、この夜道をひとりで歩かせるのは気が引ける。
そうして並んで歩くのは――あの交通事故をきっかけに、この三年でずいぶんと様変わりした道。
速度規制の標識が立ち、歩道と車道を隔てるガードレールが設置されてからは、
幸いここでは一件の事故も起こっていない。「だったらもっと早くに」とは悔やんでも仕方ないことだが……、
過ぎたことに穏やかになり切れないあたり、今日は咲達と合流しないのが正解だろう。

「スプリングコンサートに向けて」と自由曲をさらい始めたメンバーには、
罪悪感を覚える反面、ほっとしてしまったのだ。パートリーダーとして練習を見てやる気持ちにウソはないし、
『歌で涼にケンカを売る』と言い張る咲にとまどって、正直、管崎家に顔を出せない口実が出来たというのも、
ないといえばウソになる。この一ヶ月ほどで、指揮者志望たる神峰の覚悟も十分に分かっていても、
……やはり“弾けない”咲と“弾けない”神峰を一緒に見るのは、まだ、違和感を拭えなくて。

そんなと引っかかりを意識したからだろうか。心の中にずっとしこりとして残っていた疑問を
――涼は勿論咲にも舞にも聞けなかったことを、気付けば美子に投げかけていた。

「あの日の咲はどうして、涼をかばったんだろうな?」
「……そんなの……言ってたじゃない、『才能ある涼につまんねェケガさせたくねェ』って」
「ピアノ生命どころか、命が危なくてもか?」
「…………」
「……すまない、気を悪くさせた。今日のオレは何かおかしいんだ、自分でも分か」
「――こんなこと、涼はもちろん舞にも言えないから、壬の口の堅さを信じて言うけど。……あたしね、
最終的に涼がピアノを辞めたこと、咲はどっかで負い目に感じてたんじゃないかって、考えたことがあるの」
「……負い目、だと?」

これといった答えを期待して尋ねた訳ではなかった分、美子からの思わぬ告白にオレは戸惑って聞き返してしまった。
だって、ピアノに向いていないと焚きつけたのは作音楽器の才能を見出したからで、
事実、その選択肢を受け入れトロンボーンに転向した涼は、比べものにならない高い実力に目覚めたはずだ。
ある意味手柄だと誇りこそすれ、どうしてそれを悔いよう。……そんな訝しみが顔に出てしまったか、
美子はちょっと気まずそうに、怒らないで聞いて、と断りを入れて語り始める。
三年前――いつものように管崎家に遊びに行くと、咲がヘッドフォンで涼のピアノ演奏の音源に聞き入っていたのだと。

「あんなぶっ散らかったキタナい部屋でさ、最初あたしが来たのにも気づかないで『ほんと塩素くさくて、
清潔で、キレイ好きな音だよなー』なんて、ぼやくの。寝惚けんなってそれ片づけたら、コンテストの日付と
曲名だけ手書きしたCDだったんだけど……一緒に挟まってたパンフ見たら、涼が弾いた曲名ばっかで。」

「消毒の匂いだとか、あんなにずけずけ言ってたのにか?」

親友についてのまるで初耳の打ち明け話を、オレはひとつも聞き洩らさないように、頭の中で整理する。
涼がほとんどピアノ教室でしか弾かなくなった当時、新しい道へと導いたはずの咲が過去を懐かしんでいたとは、
どういうことだ?……車のタイヤが巻き上げるほこりっぽいつむじ風に、咳払いをひとつ。
信号待ちで止まっていた足を横断歩道へと進めて、話は続く。

「共感覚のことはあたしにはサッパリだから、その時突っ込んでは聞かなかったけど……。あと、
小学校に出張してアンサンブルした時のこと覚えてない?なんでか妙にピアノ役の腕を気にしてたでしょ」

『あーあ、オレが吹奏楽部だったら一緒に演れんのにな。つかそのピアノ役って、涼より上手いのか?』
『はぁ……?今はフルート一本の子だし、正確に弾けるって意味なら涼の方が上手いと思うけど、なにか?』
『や、あいつ自分よりヘタな音に合わせたくねェ!ってゴネんじゃねェか心配でよう』

そして後日、出張演奏会のビデオを顧問に借りて見せてやったら、咲は機嫌よく笑いながら、すんと空気をかいでいた。
自分がその場にいなくても美しい音を出せた仲間を、何より誇らしく思うように。
 
「……咲はどうして涼をかばったのか、だったよね。咲は昔からガサツで言いたい放題で、“吹いてる涼”を
自分で見つけた宝物みたいに気に入っていて……だけど、“弾いてた涼”も無かったことにしたくなくて、
心の中じゃ、ずーっと気にしてたのかなって。大人相手に迷わず賭けるほど自分の才能を分かってたから、
結果的にソロコンテストで涼のピアノの道を絶っちゃったこと、いつか何かで返したくって、……」

強い春風が吹きつけて、最後は消え入るようだった。

吹き終わった後のように凛と澄ました横顔に、何一つ言葉が出て来ないのは、自分だけでもあるまい。
話し込んでいるうちに、オレ達はいつの間にか、あの地点に立っていた――絶たれた、ピアノの道。
事故が起こった、忌まわしい分岐点。これこそ忘れたい、なかったことにしたい思い出だろうに、美子は包み隠さず話してくれた。
再起にかけて立ち上がった咲に世話を焼く以外は、舞にも涼にも、何もしてやれなかったオレに。
沈んでいたのにも気づかなかったオレに寄り添うように、優しい声で、背中を押して。

「――もちろん全部、傍で見てただけのあたしの想像よ。
ほら、壬もいつも後ろで車椅子押してると、咲の目が届いてないように思うかもしれないけど!
一番の親友であるあんたが見守ってなきゃ、咲のやつ、きっと安心してケンカも売れないんだから」

「そうか。こんなオレでも、支えになれたか……」

こんな話、もっと早くに聞きたかった。聞きたかった話を、三年近くもの間、オレ達は出来なかったのだ。
そして至った曲がり角で、もう近くだからここまでで、と美子が微笑んだ。華奢な肩にかけなおした鞄には、
幼稚園演奏会で園児にプレゼントされたと言う、舞とおそろいの手作りのマスコットが揺れている。

「黙って聞いてくれてありがとね、壬。」
「オレの方こそ、楽になった。だから……これからまた、舞にも言えないことがあれば、いつでも耳を貸す」
「……うん。いつでも支えて頂戴、頼れる低音!」

にっと歯を見せて笑う美子の、夜闇に溶けそうな黒髪にひらりと手を振る。
高校に入っても彼女は髪型さえ変えなかったのだ、かつて思い切って挑んだみたいに髪を染めたり、
可愛いマスコットで着飾ったり、変化を試みることに気も回せず苦しみ続けた時間は、やはり、長すぎた。
だから彼女が次に何か「変わる」ことがあったら、傍で見て、いち早くに気付いてやりたいものだ。
……来たるその日の前には眼鏡もいいものに買い換えるべきかな、自分もまた、小さな変化を望みながら。