サクランボ・ノート*イラスト付き

「それにしても、練習初めて半年だっけか。神峰君は、ほんっとにピアノ下手だな!」
「……オレはそうでも、師匠は、めちゃくちゃ上手ェス。」

わざと意地悪を言ってからかってみたら、思いのほかくそ真面目に釈明されてしまった。
スプリングコンサートぎりぎりでなんとか神峰君と日程を合わせ、自宅での音合わせに呼んだ晩のことだ。
師匠まで貶すつもりは毛頭なかったのだが、傍に付き添ってくれていた舞までも眼鏡の奥から
ジト目を寄越すものだから、今日は来れなかった美子や壬の分まで怒られているようで肩身が狭い。
まあ全然人のことは言えないのだけどな、
彼と同じく弟子たるオレの歌が突出したものではないことも、師匠が悪いせいではないし。

「とりあえず、一曲通してみねェか。ガイドボーカルありで頼む」

舞が音楽プレーヤーを操作する間に、ピアノに向き直った神峰君は開きかけの楽譜を最初のページに戻す。
やがてスピーカーから流れ始めるカウントに合わせて、深く息を吸い込んだら、演奏開始。
たどたどしいピアノ伴奏と、人魚のような師匠の歌声に導かれ、オレは歌う――。

「コンサート本番で混成六重奏を」と左右髪質の違う頭を下げられた時、オレは2つだけ条件を出した。
まず、たとえサプライズで会いに行っても絶対に情に絆されないだろう涼を、必ず一曲目で納得させてから舞台に上げること。
多勢に無勢で折れさせたのではあいつの本物の実力を引き摺り出せないし、
またパートリーダーも務める壬に舞に美子、そして涼の可愛い後輩達の一曲分のステージをぶんどる以上は、
自分も全員を納得させるだけのベストを尽くす、それが筋だ、と丁寧に伝えた。で、肝心の2つ目は。

「つーか、実理がどうたらだの、桜の音について教えろだの、オレはなんでも物知り博士か!
オレだって知らねェことの一つや二つあるわ、例えば上手ェ歌い方とかな!」
「あ、はい。つまりうちのモコをお呼びですね?」

きりっと挙手する刻阪君に妹なのかと尋ねたら、違ェけどそんな感じス、と横の神峰君(慣れた風だ)に
フォローされる。かくて声だけの友情出演、発声練習のガイドやお手本ボーカルを録音したデータ越しに、
師匠に歌を習うに至った訳で。

『ふむふむ、管崎咲良先輩、17歳男性の方。こんにちは! 初めまして、滝沢桃子です!』

ラジオの投稿コーナーかよと思わず突っ込んだが、聞けばレッスンを頼むにあたって、彼女には本当にオレの
名前と歳と性別くらいしか伝えていないらしい(刻阪君曰く「子どもっぽいところもあるけど、あれで結構汲んでくれるから」)。
確かに、涼にも関わる事情は言い触らしたくはないし、また神峰君がオレを一人の演奏者として見てくれたように、
彼女もオレを一人の歌い手として見てくれるのなら、十分なのであって。

『そうそう、衣装がズボンなら、演奏時はベルトの穴一つか二つ余裕を持たせるのもアリです。
胴周りを締め付けたら、お腹から声出にくくなっちゃうので。腹式呼吸だけで、結構変わりますよっ』

『あと歌い慣れるまでは、歌詞を単語で区切って、一文字めを強く発音するつもりで。
何と言ってるか聞き取れないのは、音を外すのと同じくらい、聞き手の集中力を散らしちゃいます』

『あ!それと今から、一番大事なことに気をつけて歌ってみるので。当ててみて下さいね。』

――「春よ」「春よ」、華やかさを抑えた丁寧なボーカルに従って、オレは務めて――笑顔で歌う。
前を向いて意識的に口角を上げることで、口と喉をよく開け放って、声を拡げやすくするために。
あるいは客席や同じ舞台で演奏する仲間から見て、視覚的に少しでも安心感を与えるために。
だから神峰君、勘違いするなよ。オレは危なっかしい君のピアノをあざ笑うわけじゃない、
下手なのはお互い様だって、雨上がりのようなその声で、笑ってくれたって良かったんだぜ?

(……そういや、オレの歌はどんな匂いがするんだか、舞に聞いたことねェなァ。)

音楽の流れを止めないまま、頭の片隅で考えた。
双子ゆえか、舞の声は生まれた時から自分のと馴染み過ぎてきちんと区別できた試しがないし、
師匠たる桃子ちゃんはなんとなく、海の向こう岸まで届きそうな潮のかおり、そんな声音じゃないかと。
そして求めているのは桜の音、桜の音なのだけれど、独りであの匂いを再現出来るとはオレは到底思えない。

ひとりで振り絞っても、桜にあと一歩届かない声――だったら、サクランボあたりだろうか。
赤く透き通った珠の実がまとう、あの甘酸っぱさ、淡い匂いを思う。さながら季節の移ろいと同じだ、
桃がほころんだら、じきに桜が咲く。桃子ちゃんからバトンをもらったら、次は多分、オレの出番。

の音.

(……そして春の次は、神峰君の番。涼を、皆を、虹翔ける先の、遥かに導け!!)

がむしゃらに笑って歌えば、久方ぶりに弾かれたピアノも、役目を果たして飛び跳ねる音。
鍵盤を叩く指先を止められらないのは、夢をくれた人が、ここにはいない人が、神峰君にも居るからだろう?