フライングタクト

日本の標準時刻と並べてフランスの時刻を表示するよう設定した待ち受け画面で、時差確認。
ウィンドフェスの打ち上げ会場をそっと抜け出て、海外に住まう姉の電話番号にダイヤルする。
発信中に聞こえてくるのはコール音ではなく、何故か日本のアイドルグループの耳慣れたヒットソングだ。
渡仏前はむしろこの機能で洋楽を聞かされたものだが、一体いつ逆転……と、そこで音声が切り替わった。

「響、久しぶり! どうしたの?」

弟だったんだ、と思い出させてくれる第一声。
変わらず元気そうなそれに、カッコつけて言おうとしていたもろもろの前置きも吹き飛ばされてしまう。
もう一刻を争わんばかりに、僕は高ぶる心のまま単刀直入に切り出した。

「今度日本に帰ってくるんだろ? レッスンしてよ僕に、勝ちたい相手がいるんだ――いいだろ?」
「んー? なんだか最近強気だなぁ、先月の桃子ちゃんの復活劇といい……あ、今日は天籟フェスだっけ。
もう遅いし、オツカレの響を夜更かしさせない程度には話を聞くよ。四小節でどうぞ」
「短っ!? えーっと……、たとえば『一緒にゴールしようね!ってマラソン始めたら、
友達がフライングでどんどん成長して、いつの間にか出し抜かれて置いてかれそう』みたいな」
「ぷはぁっ!燃えるねぇ!」

血の繋がった笑い声は、見知らぬ他人だらけのパーティーのざわめきに慣れた耳にくすぐったい。
しかし彼女には(たとえ電話越しでなくとも)僕の心は見えていないのだ、
神峰と過ごしているとそんな常識も忘れがちだが、案の定、盛大に誤解されてしまった。

「で、響はそのお友達、神峰くんだったかしら? 彼に勝ちたいと」
「え? いや、ややこしいんだけど、勝ちたいのは別にいて……うーん、話せば長くなっちゃうな」
「それは参った。じゃあ私が帰国したら――正々堂々、拳と拳でお話しましょう。暴力的に」
「なんてヴァイオリンだ! いやヴァイオレンス!」

乗っかると、さすが我が弟と得意げにほめられた。
まだ肝心のレッスンも付けて貰わないうちから、ずいぶん気の早いお言葉である。
道理で、無意識に壁に寄りかからせたこの身体も浮き足立つわけだ。
気の早い言葉でその気にさせる、叱る前にほめておく、……ちょっと怖いが、さすが我が姉。

壁を温めるのをやめて背筋を正すと、電話の向こう側でもうんと伸びをする気配がした。
パリの街角に反響するかすかな生活音も声と一緒に運ばれて、音楽でも聞いているみたい。

「ああなんだか、もう予定前倒しで飛んで帰りたくなっちゃった!
おみやげ楽しみにしててね、それまでは風邪引かないように温かくして寝ること」
「分かってるって。姉さんこそ、時差と寒暖差には気を付けて」
「ありがとう。それからね響――、一緒にゴールインを目指すお友達は、あなたの前を走ってるだけよ?
決してあなたから逃げてる訳じゃない。大丈夫、Je t’embrasse」
「……うん。そうだね。それじゃあ」
「あ、刻阪!ここに居……」

ちょうどそこへ、通路の角から神峰が飛び出してきた。
言いかけてあわてて両手でその口を押さえるが、通話はもう終了してしまっている。
携帯電話をポケットにしまうと、彼は決まり悪げに手を合わせた。

「悪りィ刻阪、邪魔した。電話してたんだな」
「いや、大丈夫だよ。彼女とだし」
「嘘っ!?」
「うん、姉さんのことだけどね?」

心を偽るまでもない口先の冗談に引っかかり、神峰は見事に口をぱくぱくさせるのみだ。
口から出まかせも度が過ぎただろうか。そういえば、打ち上げの間も少なからず心労があったようだし、
ビュッフェに用意されたご馳走も、緊張でろくに食べてないのかも。だったら僕が悪かった。

「とりあえず、腹が減っては戦は出来ぬってことで。何ならもう一周食べに行こうか、甘いのも」
「……行く!辛いのも食うっ」

逃げることをやめ、跳び跳ねた指揮者を追いかけて。
その夜はせめて、眼帯を着けた彼がつまずいてしまわぬよう、肉声の届く距離にいたいと思った。