すべきことがない時間というものは、ことさら頭の回転を速める。
学校を卒業して自分に自由な時間ができた時、僕は僕がついた嘘のことを改めて考えた。
それはとうに済んだ話ではあったものの、どうせ暇なのだ、
せっかくならほんの一部でもその嘘を「本当」にしたいと思った。
本当に国際指名手配犯だったなら、きっとこうしていたはずのルートへ。
旅支度をした僕は、ひとまず海を越え―――世界各国を渡り歩き、見て回る旅に出た。
それがひとりではなく、同級生・高千穂仕種との同行になったのは計算外だったけれど、
彼のおかげで今度こそ『偽りなく』素直にいられたことには、感謝してもし斬れないくらいだ。
……ところが、充実した時間というものに、僕はことさら目を回してしまい。
濃くも過酷な多ヶ国巡りは二年間でゴールとなった。
その代わり帰国早々には自動車教習所へ出向いて、のちに卒業式を終えたばかりの人吉くんをドライブに誘った。
若葉マークを貼ったマイカーと運転免許証を見せつけて『乗ってけ相棒』と胸を張ると、
彼は証書入りの筒をハンドルさばきのように手遊び、笑みをこぼす。
「まったく宗像先輩は、変わりましたねえ。昔は、轢き殺すかもしれないから絶対乗れない、て言ってたじゃないすか」
「変わってなんかないさ。『轢き殺すかもしれない』運転、ちゃんと用心してるよ」
後輩に甘く見くびられた気がしてつい、むっとなり声が大きくなる。
だけれど、そのボリュームの調整に不都合はなかった。
迎えに訪れた学園の校庭で、風に乗って吹き荒れる桜の花びらにまみれて、
少々声を張り上げないと全部かき消されてしまいそうだった。
「それに、人吉くんが助手席に乗るなら、教習所の教官役がいるのと同じじゃないか」
「え、マジで。予備のブレーキでも付いてるんすか?」
「いいや。けどまあ、抑止力……もちろん人さらいのよな真似はしない。日を改めて」
アクセルを踏み外さないよう、目的地まで見守って欲しいと思う。
すると望み通り、人吉くんは迷わず走ってきて、ついていきますと敬礼してくれた。
日を改めて。
何処に行きたいか尋ねたら、山、と彼は答えた。
どこまでも目の届く高い場所に行ってみたいのだそうだ。遠かったので朝早くに出かけた。
『地球儀を回して、世界百周旅行……』
道中、みやげ話を語って聞かせる合間に、かけっぱなしのラジオから流れてくる歌を聴く。
重いエンジン音に寄り添うようなギターの低音、決して声高には叫ばない詞がせつない。
途中でトンネルに入ってしまうと、電波を受け取れないために歌は消えるのだが。
サイドミラー越しに見た横顔の、もの言わぬ唇に薄くのった、照明灯の橙色だけ明るかった。
次第に道端の道路標識が減り、林を抜ければ、道はゆるやかな曲線の上り坂になる。
視界は一気に開け、頂上が見えた。樹木もない高原の眺めは、空色と新緑、横薙ぎに斬ったように上下で隔てられて見える。
たどりついた展望所の少し手前、レストハウスの駐車場は三分の一ほど車で埋まっていた。
「そういやお母さんが時々やるんすよ、どこに停めたか忘れちゃったって。ナンバー覚えててもこればっかりはなぁ」
「あは、こう言ってはなんだけど、可愛い人だよね。ちなみに僕のは、最初に扉を通過した時の暗証番号だ」
助手席を降りた人吉くんは伸びをして、吹きすさぶ風に大きく身体を震わせる。
三月で晴天とは言え、気温はまだ冷たい。
ジャケットもマフラーも着けていたが、眉間に刻んだしわは深い。
僕がためらわずコートを脱いで縮こまる背中にかけると、彼はびくっと肩を上げて振り向いた。
「駄目ですよ!先輩が寒いでしょう」
「だめくない。寒くないし」
準備していたスペアのコートを、僕は何食わぬ顔で袖口から取り出し羽織る。
人吉くんは首を傾げるけれど、ありがたく借りますとすぐに折れてくれた。素直だ。
じかに着ていたものを貸す方がきっと暖かいだろう。
帰ってくる人とすれ違い、近くの丘に建つ何がしかの中継局、
電波塔とおぼしき施設を横目に整備された道を歩き、……間もなく、僕らは立ち止まった。
行き止まり、この先に道はない。
それなのに、ここからどこまでも望める―――青い青い、不思議な遠景。
頭ひとつ飛び抜けた山の頂上から、取り囲む山並みを360度見渡せる。
さざ波のよう、若草の芽吹き始めた高原は、山肌を風になでられるたびに
不規則にうねり模様を編み出した。隣では人吉くんが深呼吸をして、声を弾けさせる。
「すっげ、デビル絶景!」
「ああ……、こればっかりは、地下じゃ再現出来ないや」
ばたばたと布地を叩く風の音に、お互い声が大きくなる。
地形や山の名前を解説した案内板には目もくれず、
彼はおもむろに鞄を手探ってデジカメを取り出した。
陽光にきらめく赤いボディを差し出し、彼はにっと歯を見せて言う。
「宗像先輩、撮ってください」
「いいよ。何処がいいかな、とりあえずそこ立ってみて」
「ん? 何とぼけてるんですか、一緒に、ですよ」
レンズをこちらに向けたカメラを掲げ、人吉くんが左腕を組んできて、
『あん? 何すっとぼけてんだ宗像、てめーも一緒に写るんだよ』
―――熱風を思い出した。砂漠の町。なんていう国だったっけ。
思い出に気を取られた僕は、ハイチーズと彼が歌う瞬間の、盗み見た唇のカーブにハンドルを切り損ねる。
まばゆい太陽と、抜けるような青が似ていた。
後で確認したところ、撮れた僕はよそ見をしているようで、
人吉くんはなんで俺を見てなかったんですかと無茶な要求をした。
「―――なんか、うらやましい。ほんとは高千穂先輩の指定席なんすよね、ここ」
帰りに渓谷沿いを走っている時、人吉くんはそう言った。
助手席の事だ。どうして解ったのかたずねたら、匂いと、ぎりぎりまで後ろに下げていた座席を見ての勘らしい。
それに二人で旅行して、帰ってきてからのくだりも。高千穂は免許を取っていないのだ。
「俺てっきり、あの人も車嫌いなんだと思ってたんで意外です」
「ああ……昔は、嫌がってたね。なのに今は、ありがたいよ。きみもあいつも、僕の腕を信用しきってくれる」
「そりゃ、不安なんてあるもんですか。かもしれない運転、用心してんでしょ」
かはっと笑って、人吉くんは手のひらの中のデジカメを操作する。
空、原っぱ、何枚も風景を撮った中には何人か観光客の後ろ姿がまぎれていたが、
山並みを背に二人並んだものは一枚だけだ。
あそこには家族連れも、老夫婦も、僕らと同い年ぐらいの人もいた。
シャッターの音があちこちで湧き起こる中で、自然から人間を完全にどかして撮影することは無理そうだった。
僕らの姿も、きっと誰かの写真の隅っこに偶然残っていることに違いない。
それがたとえ地面に伸びた影だけだったとしても、僕らが今日ここに来たことも――
似たように僕らが旅したことも、目撃者が多すぎる。事件性があり、時効はない。きっと一生、忘れられない。
やがて画面の暗くなったカメラから顔を上げて、人吉くんは
シートベルトが窮屈そうなくらい、前屈っぽくうんと手足を伸ばした。
「うあー、俺も早く免許取らねーと。先輩に運転させてばっかじゃ、申し訳ねえ」
「まあまあ焦らず。とは言え休憩はそろそろ欲しいかな、どっかでお茶しよう」
「お疲れ様です。うまいもんあるといいなー、あとお母さんへのおみやげも」
「ふふ、いつかお母さんも乗せて来れるといいね。……高千穂、どんなの喜ぶだろ、」
――昔は、人吉くんだけで。
人吉くんといても、他の誰かを思い浮かべる余裕が出来て。
確かに彼の言う通り、僕は変わったかもしれない。だけれど誰ともすり替わった訳じゃない。
運転席と助手席の距離のまま、多分、夢中で走り回る限りは危なっかしくて手も繋げない、出会った時の距離のまま。
ハンドルを握る手に力を込めながら、手ぶらで誰かに運転を任せる想像。
記念写真も、車も、いつかのその時も隣に好きな人が居てくれたら―――
アクセルを踏んでゆるやかに加速する箱の中、まだ見ぬ目的地へ僕は心を躍らせた。