もう口紅も落とした唇から、うらやましいわとため息がこぼれた。
息子が淹れてくれた一杯のコーヒー、その香ばしいかおりに満ちた小さな台所で、
ミルクのように何気なく落とし込んだため息はほとりにひとつ波紋を生んでしまった。
「母の日イベントだなんて、今はオシャレなこと考えるのねえ。
製菓部の子たちは、学校にお母さん呼んで作りたてのスイーツをご馳走したんだって?」
クラスで行われた保護者懇談会から帰宅した晩。
配られた資料をカップ片手にめくりつつ、エプロン姿の部員らとその母親の笑顔の写真にひとりごちる。
会では(もののたとえではなく)自分よりこんな大きな人達になんとか混ざり、
生徒の活動紹介や今後の行事予定などを一通りおさらいして、
息子の待つ家に戻ってひと息つきながら――私の目はそのイベントに釘付けになったのだ。
が、コーヒーメーカーからフィルターを外して早くも片づけにとりかかる息子は上の空。
おしゃべりしたいのになぁなんて急く心で「いいよねぇ」と私が念押しに畳みかけても、
流し台からちょっと振り向くこともせず、はっきりしない声が水音交じりで返ってくる。
「……セーカ部、米良委員長が部長で」
「そうそう! ほらここ見てみなさいよ、写真が載ってるから。あー、エプロンの似合う可愛い子ねえ」
「……ゴメン、俺らは……、生徒会は……そういうの無くて」
「えー? やだちょっと、別に催促してるんじゃないのよう。どうせ一週間も先だし」
返事のあまりの張りのなさに、砂糖をたっぷり溶かしたはずのコーヒーも味がしなくなる。
食卓を面白おかしくばしばし叩いた手も、じんと痛いだけ。
思えばその夜は会に出席するために夕飯も早く済ませなくてはならず、ろくろく話す間も無かったのだった。
だからああ――よりにもよってそんな日に限って、ヨソの子をうらやんで比べる物言いなんてしなけりゃよかったのに。
製菓部じゃなくても生徒会でも、善吉くんは善吉くんなのに。
「つうか悪い、お母さん。明日俺ちょっと早出するから朝メシはいい……、あと、弁当もいらねーから」
背を向けたまま、強固な殻に閉じこもられてしまったのだ。
「ふ、ぐう、ひううっ。うわああああん、もう、私の馬鹿親っ。子どもの気持ちも汲めないひよっ子っ」
「あのね奥さん。悪いけど今のアンタ、はじめてのおつかいでベソかいてる子にしか見えないよ……」
生まれて初めて愛息子に朝メシと弁当を拒否られた翌日、やっと放心状態を脱した夕方。
肉屋の店先でエコバッグを抱き締めながら号泣する私を、人でも解体出来そうな包丁を携えてなぐさめるのは顔なじみの店主である。
値段の勉強にオマケもしょっちゅう、すっかり常連となってはいたが、さすがに泣き顔を見せたのは初めてだ。
世間話からさっそく昨夜のくだりをバラして、
『今日は息子のご機嫌取りしなきゃ、こういうの反抗期かな、アハハ』なんて大笑いしていたら、
背伸びして覗き込む冷蔵のガラスケースがひどくびしょ濡れて、結露のせいだけじゃなくて。
思い出し泣き。いつもの家事の買い物だからと心を落ち着かせたのに、こんな油断が命取り。
それでも……せめてヨリを戻す(?)ために、私は腕によりをかけて彼の好物を夕飯に作り、
その帰りを待ち構えねばなるまい。ここは奮発していいお肉でカツカレーをと、
ケースの一番高い段に鎮座するひときわ赤みが鮮やかで分厚い肉を指さし、バッグからお財布を取り出す。
店主はにこにこ顔でそれを包みながら、それにしても、とふと首をひねった。
「手作り弁当を断ったのは、本当に不機嫌だったからなのかね?
今朝早く、向かいのスーパーで買い込んでいた牛乳や卵や小麦粉が、彼の昼食に化けたとでも?」
飛んで帰って、損をした。
「お母さん、買い物はいつももっと時間がかかるハズじゃねえか」と善吉くんが絶句したことが、およそ状況の核心を突いていた。
食卓の上には――花瓶に飾りかけの赤いカーネーションと、ささやかなデコレーションの完成した小さなケーキがあった。
見覚えのある光景に今度はこちらが絶句する番だ。
昨日めくっていた資料にこんな写真が載っていた、花とケーキと、エプロンこそ着ていないけれど。
せっかく保冷剤をつけて買って帰った肉と野菜を冷蔵庫にしまうのも忘れて、
私はまた性懲りもなく、写真の中のヨソの子と頭の中で見比べている。
すると彼はえらく気まずそうに、絆創膏を巻いた人差し指で頬をかいた。
黒い制服の裾はわずかについた小麦粉で灰色にくすんで、かすかに甘い匂いを漂わせる。
「……すげー土壇場の思いつきだったし、朝、昼抜きでも失敗作だけで腹が膨れる自信あったかんな。
江迎と不知火も助けてくれて、家庭科室借りて……ってーもう、生徒会の報告でもねーのに喋り過」
ぎゃっ、と語尾は間抜けた悲鳴になった――私が床を蹴って飛びついたせいで!
商店街のお店をはしごしてずしりと重くなった荷物はもう床に置いて手放したはずなのに、どうして。
精一杯広げた私の両腕の中には、保冷剤なんていらない、熱い熱い生きた子どもが赤い顔で強張ってる。
互いを隔てる殻もない、むきだしの鳴き声に驚きながら。
「だ、だ、だからあんたは手がかかるのよ。失敗作なんてある訳ない、一番最初に出来たのでいいじゃないのっ。
甘いのばっかりお腹に無理して詰めて、それ以上大きくなってどうすんの。
そうやって私よりどんどん大きく――う、うぇ」
……意気揚々、苦労して餌を巣に運んだところ、一足早くご馳走が用意されていた。
ごくたまに生意気なくちばしは今は口をつぐんで、そろそろと私の頭に手のひらを置くだけ。
どっちが雛だか分かりゃしないけど、まだヒトリ立ちまでに時間が少しあることは確からしく。
「まあ、いいんじゃねえ。……俺が大きいと、おつかいでガラスケースの上にある高い肉も選び放題だし」
「……悪っ。善吉くん悪っ! いいわよーそんな悪い子にはケーキあげない、独り占めしちゃうから」
「どうぞどうぞ。江迎も不知火も俺も、もう腹一杯散々頂きました」
「ず、ずるい! なんで私も呼んでくれなかった」
父の日が無い我が家での、年に一度のヒトリ占め。
彼が生徒会長職に就いてから訪れた、とても久しぶりにゆるやかに流れる時間に羽を休めながら、
『母の日が年に一度しかなくて良かった』と私は無い胸を撫で下ろしていた。
(毎日ケーキを作られたら困る、だって善吉くんの誕生日に私が作れなくなるじゃないの!)