制服に着替えてしまったらまず、僕は洗面所の鏡の正面に立ち、ぴんと胸を張る。
背筋を正してかかとを接する。映った自分と、視線を合わせる。
目つきの悪さは相変わらずながら、その下にくまなどこさえていないのは幸いだ。
ぱん、と思い切り両手で頬をサンドイッチしてみた。
痺れるほどに生まれた熱が、冬の早朝の寒気をごまかす。
そのままぐりぐりこねまわして、凝りをほぐせば少しは血流が良くなる…と、信じる。
青白い顔色も多少はましになって、怖くない人間に見えてほしい、そう思う。
「……襟よし、袖よし、ネクタイよし。前髪よし、口よし、目ヂカラよし。」
鏡を睨みながら何度も何度も髪をなでつけて、左右の人差し指で口をこじ開けて、吊った目じりをつねって下に引っ張って。
指さし確認で白い制服にしみや汚れがないこと、暗器の尖りがはみ出していないことを確認したら、いよいよ待ち受ける最後は首だ。
土から顔を出す努力。
ネクタイをこころもちきつめに締め上げて、時計の文字盤を確認。
執着的に繰り返した動作のおかげで、すでに一時間が経っていた。
おかげで約束の時間まであと五分しかない残されていないものの。
「ふ――人吉くん。これで今日も、花丸だ」
もう一度強く頬をはたいて、鏡の中の彼はぎこちなく笑って名を呼ぶ。
『外見だけでも普通のように』。
人吉くんの隣を歩くということは、そういうことだと僕は思う。
「はよっす宗像先輩!」
「おはよ。今朝はえらく浮足立ってるね、スキップかよ」
「へへー。星占い、あんたに勝ってましたんで」
人通りのある住宅街を少し離れ、森林公園の裏手にある小高い山を回り込んだ先の、使われなくなった倉庫や空き地を通り過ぎたその奥。
そんな場所へ、今朝も人吉くんは迎えに来た。
吹き荒ぶ北風にマフラーをなびかせ、よどみなく散らす白い息はしゃぼん玉に似ている。
そうやって得意げにたたんとアスファルトを鳴らされたら、参りましたとホールドアップ。
加えてあのタップダンスみたいに軽やかな変則スキップ、どうやってるのか分からなくて凄い。
「どうしたらこけずにそんなこと出来るのか教えて。着くまでにマスターするから」
「お安い御用です。そういや俺こそ、昨日先輩に教えてもらった課題、全部解りましたよ!あざっす」
「よしよし、見込みがあるぞ」
偉ぶりつつ、すり気味になる足裏を地面から引き剥がして真似た、先んじた一歩。
収納した暗器の金属音対策はばっちりだ。繊毛の上を歩くように音もないスキップ。
凄技を教われるものだとばかり意気込む僕に、しかし彼の顔はたちまち不満げになるのだ。
「あれ。足音くらい立ててくれませんか、幽霊でもありませんし」
どこかすねた声音で、人吉くんはそそくさと僕の隣に並ぶ。
人吉くんが学園へ向かう道中、少し寄り道をして僕の住まいを訪ねてくれる。
そんな通学が毎朝の習慣となったのは、実は最近、三学期に入ってからだ。
前々から重ねて声をかけられていたのが、渋々やっと首を縦に振った次第で。
理由はお察しの通り――元・国際指名手配。
当たり前だ。手配から足を洗ったとはいえ悪名高い最上級生と普通に下級生な生徒会長のツーショット、どう見たって穏やかじゃない。
校内では誰とどう接しようが『業務』と見れるけれど、万が一、僕が彼を脅して従わせてるなんてあらぬ噂が囁かれたら……。
立場のある友達の迷惑で面倒になる前に、だから僕は断ったのに。
何度も説得されて、とうとう根負けしてしまった。
「あのな、俺はあんたが有名人だから付き合い始めた訳じゃねーぞ。
先輩はもうただの一般人なんです。そこんとこ勘違いしないでくださいね」
字面だけ見れば悪口みたいに。
手錠をかけることも暴力に訴えることもなく、きわめてデビルに情に訴えた。
入学以来見たこともない校舎の靴箱を使うのも、まさかその翌日になろうとは。
その日からというもの、たくさん、たくさん、僕らは一緒に歩いた。
彼が遅れて着いた時は全速力で走った。必死にカバンの取っ手を握りしめていたせいで、昇降口では汗ばんで赤くなった掌を振る羽目になった。
早起きした日は道草を食った。まだ降りたシャッターの多い商店街で、一足早く焼き上がるパンの匂いに得をした気分になる。
凍てつく日は霜を踏み、晴れた日は土手に芽吹きつつある緑を眺め、暖かさに春の訪れを予感したり。
また雨の日は、急に吹き付ける突風で人吉くんの傘が裏返り、骨が折れてしまったハプニングがあった。
思わぬ相合傘のチャンスに、人間性を試されている気がしてならない。
申し訳なさそうな後輩との接近にどきどきしながら(整えた身なりのまま『普通』らしく冷静に)、
身を縮こまらせる彼が濡れないよう頑張ってみたのだけれど。
「こら、宗像先輩!肩が濡れてんだから、俺に気を遣わねーでもっと寄ってくださいっ」
「むう。僕は別にいいのに……きみはダメか、じゃあこれだ」
後ろ襟に手を突っ込み、背中に仕込んでいたそれを僕は居合抜き―――食品用ラップフィルム。
傘の外にはみ出ている己の肩から指先まで、傘を持ったまま目にも止まらぬ速さでぴっとぴったり
巻きつけた。見事に水を弾くラップアーマーに、人吉くんは怪訝な顔。
「それ……、暗器すか」
「いいや。知らないの?もともとラップというのはだね、
銃器の火薬が湿気らないように包んだものが始まりで、つまり僕が持っていても全然おかしくない訳で」
「いえ、腕に巻くのは全然おかしいです」
ぷっと噴き出されて、強引に腕を組まれる。
びびった。何も巻いてないほうの腕は刺激的だった。
温度も湿度もシャットアウトされず、布越しに僕に伝わってくる。
寄り添ったおかげで、どちらも雨に濡れずに済む。
「学校までこうしましょう。……お、おれは全然良くっても、あんたに我慢させるのはすみませんが」
とんでもない、と僕はどさくさまぎれに人吉くんの肩を抱く。
ラップをかけて冷え切った底にしまっておきたいような思い出。
時々は取り出して温めたいと思うのだ。
それから、木枯らしもなく明るく晴れ渡ったある日、ようやく見慣れ始めた通学路に変化が生まれていた。
簡易の柵で囲まれ、ずっと建設中の看板とシートがかけられていた空き地に、小ぢんまりとした店舗が開店していたのだ。
つたを這わせた煉瓦の塀と古びた鉄の門。
ちらっと覗いたそこには垣根があり、洋風な店の入口まで森の小道さながらの造り。
『靴箱庭』と冠した真鍮のドアプレートに、ちょっと親近感が湧いた。
「そういや、靴をそろそろ買い換えなきゃでした」
しばし見とれた後、通り過ぎながら人吉くんは呟いた。
つられて僕も足元を見やる。なるほど確かに、そろそろお役御免でいいだろう。
「入学してから、もう二回は換えたんですけどねえ」
「あらら。すごいな、さすが生徒会役員だ。……って、僕も大概履き古してるか」
「先輩はむしろ、一回全力で走ったらもうダメになる速さじゃないすか。一日交換っていうか」
冗談めかしてほめる通り、実は僕も三回は買い換えていたりする。
しかもそれは、フラスコ計画が凍結されて以降の話というのがミソだ。
人吉くんと友達にならなければ、遅刻しそうで力一杯走ることも、いろんな場所に遊びに出かけて靴を履き潰すこともなかったはずだ。
間もなく春を迎える道に連なる緑に、その名前や花の色を教えあうことも。
「――今度の日曜、一緒に靴を買いに来ようぜ。」
忍び足を意識して聞いてみた。
足音がうるさくて大事な言葉が聞こえなかった、なんてないように。
人吉くんは足を止めないまま、いいっすねと元気に返事する。
「卒業祝いってんですか。俺が買うべきですかね」
「それはいけないよ。でも、なんならお互いに選ぶのもいいかもね。来年度から靴は学校指定以外もありになるんだろう」
「そりゃまー、俺がもっともらしい理由付けて校則変えちゃいましたからね。役得、内緒ですよ」
悪戯っぽく八重歯を見せて笑うさまに、僕は肩をすくめる。
前回靴を替えた時、僕が何気なくこぼした一言を思い出す。
紐靴なり下駄なりブーツなり、学校帰りに寄り道をする時も楽しくなるよう、種類を選べたらいいと。
やっぱり脚のことに関しては、生徒会長の右に出る者はいない。
右に出る者はいなくても、その右に居られて僕は幸せだ。
現実から裸足で逃げたいことは何度もあったけれど――靴を履いてて、本当に良かった。
「内緒。うん。内緒で、二人で、靴を買いに行こう。おそろいのがあったら、嬉しいな」
「もちろん。デビルかっけーのを選びますよ、絶対に」
閉じた部屋から外に出て、次はどこへ行こう。次はいつまで靴がもつだろう。
学校に行くためだけに学校に行くのを楽しむような、
そんな履き違えが奇跡じみた産物に思えて、僕は思わず変則的なスキップを踏んでいた。