学園で越す初めての冬、学食で過ごす昼時は、水族館に潜るよう。
凍てつく外界からガラス一枚隔てたそこは、正午の太陽の光にとても恵まれている。
天井で廻るファンの音と群れるざわめきを聞きながら、ほんのいっときの休息所を見つけて。
「今日の人吉くん、家庭的な匂いがする?」
クエスチョンマークひとつ、語尾につけて。
食卓の向かいから身を乗り出した宗像先輩は、猫のように鼻先を近づけふんふんと嗅いでくる。
面食らった俺はとっさに、トレーを抱えたまま椅子ごと後ずさっていた。
それでも謎を解明せんと近づく彼のあくなき探究心に、実験動物にでもなった気分を味わう。
「家庭的なってどういう……、あ。今日は三・四時限が調理実習で家庭科室にカンヅメだったんで、その匂いじゃないすか」
「へえー。あの、みんなで班を作って同じ献立を作るってやつ」
「ええ。粕汁と甘酒を作りました」
「わ、酔拳が使えるようになりそうだねえ」
いただきます、もうちゃんと席に腰を落ち着けてから合わせる両手は、確かにそんな酔っぱらいの武芸の構えにもありそうな。
ちなみに本日のぶっとんだ献立をプロデュースしたのは全学年共通の家庭科教諭、酒殿神酒と書いてサカドミキ先生。
実習でこそ反面教師的な嗜好を発揮する彼女は、生徒間において『キッチンドリンカー』の愛称で親しまれている(いない)。
在学生なら誰でも知っているそんなことを、
日替わりランチのほかほかの煮魚定食をつっつきながら、最上級生に俺はえらそうに吹聴してみた。
そういった“普通の授業”にうとい宗像先輩は、興味深げにあいづちを打つ。
「そうなの。じゃ、僕も授業を受ける機会があれば覚えておこう。
包丁の危なくない使い方も教えてもらいたいし――それにしても、だ。人吉くんが酔っぱらってないのは、残念極まる」
「……はぁ?」
「うんうん。きみはアルコールに強いのか。もしもきみが前後不覚だったなら、僕が保健室に連れ込……付き添うことも出来たのに」
「酔っぱらいはあんたの方だ」
「失礼な。僕はシラファだよ」
「なんでそこで音階が出てくるんだよ!やっぱ酔ってんなあ!」
いやいや素面だよと彼は何食わぬ顔で首を横に振るけれど、いかんせん説得力に欠ける。
ちょっと幼稚なねぶり箸で、ほぐした魚の身をぱくつきながら言ってのける彼の横顔がほんの少しだけ――薄く赤らんで見える、とか。
がつがつ箸を進ませて、おかずの小鉢と交互に盗み見た。
あるいはあの赤みは、年も暮れゆく時節にはめずらしい晴天だからかも。視線を巡らせる。
中庭に面したガラス張りの壁は、多面的な構造が日光を乱反射させ、広い食堂のすみまで行き渡らせる。
加えて暖房により屋内は汗ばむくらいだ。
「結構温まるよねー、鍋料理でもないのに。しかも粕汁と甘酒のコンボの後じゃ暑いくらいじゃないの」
「そっすね。十二月だって忘れそうな、」
実習で小腹を満たした後でも、おしゃべりと粕漬けでご飯がすすむ。
濃い味付けの汁に寝かされていた魚も、ついに骨のみを残すところ、ネクタイをゆるめて汗をかいたコップに手を伸ばした。
日当たりのいい特等席で、すっかりぬるまった水を飲み干す。塩けで少し喉が渇いている。
すると、正面で小骨相手に悪戦苦闘している宗像先輩が箸を置き、とがめるように人差し指を立てる。
「イッキ飲みとかって。匂い、染みついちゃってるの気づかない?
いけない一年生だなあ。不良だよ不良、中学に続き高校デビューのつもりかもしれないけどさ」
「う……、俺の黒歴史を蒸し返さないでください」
「またそんな顔して。――とは言え、いずれ人吉くんとは一杯酌み交わしたいと思っていてね。
四年後に僕が一番に予約しておくから、忘れないで」
「……宗像先輩?」
「あはは。四年前のきみはお酒くさかったなぁって、昔話でもしたいよね」
肩を揺らす度に後ろ髪が跳ねる。
片手で覆われた口もとの、隠し切れない笑みに少しだけ困惑してしまう。
今日はどこか(それこそ酔ったみたいに)いつもよりずっと上機嫌に絡んでくる宗像先輩に、どうにも慣れない感じだ。
そして再び箸を取り上げ、魚の解体に取り掛かる彼の話は、トビウオじみて飛躍する。
「まあ、そんな千里先のためにまず一歩。
――暇な時でいいから粕汁と甘酒の作り方を教えてくれ、家庭的な匂いぷんぷんの人吉くん」
「家庭的の意味が間違ってないすか」
「意味は違っても言葉は合ってるからいいんだよ、人吉先生。」
……うわお。
今なんだか、見栄というか自尊心というか、秘めたそれらを非常に巧妙にくすぐられた気がする……
こんなしれっとした口車に乗っていいのか俺。いや、友達とのおしゃべりは口車なんて言うまい。
卓上のポットからコップに水を継ぎ足す。無色透明無味無臭のはずが何故か、舌の上に味があった。
例えるならそれは放課後にこしらえる、二人分の粕汁と甘酒に似て。
四年後も、今日のことも。
制服の上からエプロンを着けて、台所に二人で立っている近未来を想像する。
調理実習で習ったばかりのことを宗像先輩に教える、もしかしたらその場には、おせっかいなお母さんも首を突っ込んでくるかもしれない。
そんな場で先輩が後輩を先生と呼ぶなんて変な……、いやでも人吉先生二人いるじゃん、
だからややこしくないよう今日は絶対に二人っきりで、そんな風にいつかも先輩と一緒に飲みたいな、みたいな、そんな。
「――今日、今日です」
「え」
「今日、暇なんです。作り方忘れない内に、だから、帰りにスーパーでも寄りましょう」
「……いいの?酒の席を装ったワガママかもよ?」
「何言ってんすか、酒の席は四年後でしょう。まだまだ先です」
だからそこにたどり着くまでは、少々千鳥足の曲り道だって。
春先のようにぼうっとするのも顔が熱いのも調理実習のせいにして俺は、
不可思議なほとぼりをはらんだぬるい水を、もう一度コップに満たして自暴自棄にあおった。