ハージーズフレンズ

俺は宗像先輩のパシリじゃねえ、という怒鳴り声が廊下まで響き渡った。

友達に借りていた漫画を返そうと、一年一組を訪れた放課後。
浴びせられたそれは聞き慣れた人吉くんの声なのに、かつて聞き覚えがないほど尖っていた。
驚いた僕は思わず、まぶたがひきつる限界まで目を瞠る。勢い余って瞳孔まで開くかと思った。
しかし享年十八歳、僕がそこでショック死せずに済んだのは――
通路と教室を隔てる壁があるおかげで、肝心の彼の姿が視界に入っていなかったからだろう。

人吉くんが、他の誰かに対して、僕の名前を口にしている。

ばくんばくんと脈打つ心音は鼓膜さえ破りそう。
ともあれ教室に一歩足を踏み入れる寸前で助かった、僕はすかさず今来た方に飛び退いて
ロッカーの影に身を隠し耳をそばだてる。
人影は見当たらないながら、教室の中には幾人かの生徒が残っているのか少しざわついて。
なおもそこへ、揶揄する声が次々とかぶさる。

「はっ、だっせー。そういう必死なとこがパシリっつんだろ人吉、お前、犬かよ」
「だよなーどう見ても、しかも忠犬だぜー! その荷物、初めてのおつかいってか」
「ぎゃはははは! 先輩先輩って、人が怖くて出歩けない指名手配犯だっけー。毎日面会ご苦労サマ」

「っ……」

爆笑の渦が巻き起こって、それきり返答は聞こえない。
最後にぶん投げられた具体的な単語に、まさか盗み聞きしているのが見つかったのかと恐怖するけれど。
……それが僕の居場所を見抜いたものではないと気づいて一瞬安堵し、次の瞬間、途方もない吐き気が遅れてせり上がってきた。
景色がちかちか瞬いて、指先が膝が、がくがく震えるのを何とか腹を抑えて目をつむってやり過ごす。
クラスメイトがはやし立てる、人吉くんが持っているらしい『荷物』。すぐに正体に思い当たった。

たった今言われた通り『国際指名手配犯』な設定のせいで、僕は最近までこの学園での身分があってないような状態だった。
人吉くんと出会うまでは、学生証も、靴箱の一スペースも、図書室の蔵書貸し出しカードも持っていなくて……、
入学以来初めて案内された広大な図書室でほうと感嘆のため息をつく僕に、彼は申し出てくれたのだ。

「宗像先輩、カードないんすか?だったら俺がついでに借りときますよ。なんか読みたい本あったら教えてくれ」

……本当に、ありがたかった。
貸し出しカードはその場でも作れたはずだけれど、それはきっと言外に、
僕が人の集まる場を行き来したり、そんな場に居る上でのストレスも気づかってくれたのだろう。
過保護で甘く、しかし冷たくはない。温かい。胸が熱い。
だから僕は――人吉くんがいつしか図書室の本に限らず、
自分の本棚から選んだお気に入りの一冊や、流行の曲の音楽CDや、手作りのお茶菓子なんかを届けに来てくれることが、
周囲の目にはどう映っているかだなんて――今日の今日まで、思い遣りもしなかった。

「マジ匿われたままでいいのによ、オレらの平和な学園生活が脅かされるからさー」

……ざわめきが失笑に変わっても、人吉くんの声はしない。
もしかして、今やあいつらに同意して肩をすくめているのか。愛想笑いでやり過ごしているのか。
頑張って楽観、そうだといい。噛みつき返すことで彼だけ笑い者になるくらいなら、
僕をいないものとして、マイナスとして笑ってくれる方がずっとマシだった。

(苦しい。頭が痛い。耳が遠い。息が出来ない。背筋が寒い。爪先が熱い。走れない。逃げなくちゃ。)

死んじゃいたい。誰か僕を殺してくれ、図書室の本でも借りてくるようにほんの一殺、頼むから。
それとも身体を張るのなら、ここを飛び出して腹でも切れば、
『切腹なんて初めて見た、超受けるー!』なんて、彼らは僕だけを笑ってくれるだろうか? なあ、

 

「――笑うなっ」

「………………いやいや、」

そこは笑っておけよ、友達。

人吉くんは笑ってはくれなかった。と言うか、……見たことがないほど、怒っていた。
ようやく顔を上げることが出来た僕のたった三歩先、手を伸ばせば触れられそうな
廊下の窓ガラスには、教室の中で気色ばむ景色がかすかに映り込む。
真っ赤な顔で僕と同じように堅く拳を握って、荷物の入った紙袋をぎゅううっと胸に抱いたまま、彼は番犬のように吠えたてた。

「笑うな。笑うな。笑うな。笑うな。笑うな。笑うな笑うな笑うな!!
俺はお前らと友達じゃなくて、本当に良かった!!!」

(……逃げなくちゃ)

ガラス越しの色がにじむ。
こんな顔見せられない。見られたが最後、僕は恥ずかしさのあまり自ら腹をかっさばいてしまうだろう。
切腹の何がいいかって、短刀を両手で持つから否が応にも一度うつむくしかない仕組みが最高だ。
きっと恥ずかしがり屋の、最期の時に死に顔を晒したくなかった武士が考案した死に方に違いない。
なんて、なんて死顔志願。

(僕は、人吉くんと友達で、本当に良かった。)

未だ熱の引かない四肢を動かし、目にも止まらぬ速さで走って逃げながら、
今は助けに入れずに見捨てて申し訳ない、だからって謝っても許されない、だけど次は必ず、
必ず格好よく助けるから―――情けなくもろい決意を固め、
早死にせずに済んだ僕は一度は手をかけた日本刀から手を放した。