死語(しにたがり。)/人語(ひとがたり。)

もう嘘はつかない。
正月に友達と出かけた初詣ではそう誓ったはずなのに、僕はまた破ってしまった。
枕元の読書灯の明かりだけを頼りにする自室で夜中、だらしなく敷き布団に寝そべりながら、
画面の向こうの人吉くん相手に僕は親指一本で真っ赤な嘘をついた。

『ごめんね、なんか眠くなってきちゃって。ではまた明日、おやすみなさい』
『おやすみなさい。』

送信を済ませても、名残惜しさに携帯電話を畳めない。
握りしめたままで布団に仰向けになり、僕は冴えた目を無理やり閉じた。嘘。
本当は微塵も眠くないしメールも続けたかったけれど、
普通な人吉くんに迷惑かも知れないと考えると、毎度自ら切り上げずにはいられない。
そんな素振りをもしもあからさまに見せてくれていたなら、僕ももっと早く気付けただろうに……
ごく最近ようやく芽生え始めたその自覚は、改めて僕と彼とを分け隔てるものだった。

――おそらく僕には、睡眠欲というものが他人よりずっと不足している。
いや、正確には食欲・性欲・睡眠欲、人間の三大欲求とされるそれらが平均より異常に少ないはずだ。

一人の人間が持てる欲求の総量を十として、誰しもそれらを好き勝手に割り振って生きている。
たとえば太刀洗選挙管理委員長などは極端に食:性:睡=1:1:8とでもなるのか、
ともあれ、三つに割る以上はまだ個性の内だろう。しかし。四つめの欲『殺人衝動』があるなら話は別だ。

感覚的には1:1:1:7か?
おかわりも別腹も間食もしたがらない。惚れっぽかったり、たやすく気持ちが昂ったりしない。
夜更かしをしても翌日に響かない。夜分メールを重ねる相手でさえ、本性では殺したくて堪らない。
殺害以外に―――何も欲しくない。そんな言葉でいともたやすく、人は無欲な豚になる。

「……僕って豚か?」

寝返りをひとつ打った。
もとは恩師の教えか友達の教訓か、詳しいことは忘れたけれど、とにかくそれは妹の言だった。
思い出して、豚は嫌だなあ、とうんと顔をしかめる。
だって僕の友達や僕の妹を、豚の友達や豚の妹にしてしまうのは、いくらなんでも忍びない。

「あぁあ。誰か欲しい人がいたら、ただで譲ってあげるのに、」

札束みたいに持ち腐れる殺意を。
眠くもないのに夢のような話だった。そんな取引が成立すれば、燃費の悪すぎた殺意を他に使い回せる。
人並みに食べたくなり、好きになり、眠れる。僕は普通になれる。豚から人間に進化出来る。いつの日か。
……憂えば憂うほど、指名手配らしくなるしかめっ面を誰にも見られたくなくて。
餌にたかる豚のように枕に顔を埋め、掛け布団をかぶって身体を休める。
たとえ明朝豚になっていたとしても、人吉くんの役に立つ準備をする。
 
 
僕が札束を失い無一文になる日、それは思ったより早くに訪れた。
翌日はよく晴れていた。
お昼休み、いつものように人吉くんを誘うと、彼は目を泳がせながら乱暴な棒読みを始める。
机の上にどんとそびえる、三段ほどの重箱を包む風呂敷の固い結び目に悪戦苦闘しながら。

「あーもう先輩、マジ迷惑ですよねっ。
ほら、お母さんのおせっかいが本当に凄いんですよ!あの、お、俺が世話になってるから一緒にって」

最初僕が迷惑だと言うのかと思った、ら、違っていた。
気の早い花見弁当じみたそれを僕に押し付け、曰く『お母さんが持たせてくれた』そうだが……
苦労が垣間見える包み方と、それを解く、切り傷や火傷をあちこちにこさえた指先はひどく雄弁だ。

連れられた中庭では、日差しを浴びて梅の花がほころびかけていた。
木の下のベンチに陣取り、広げた重箱を二人でつつく。
どれも『お母さんの味』でありながら、知るはずもない僕の好みにもどこか添っているのは、ああ。

「宗像先輩、もうすぐ卒業っすね。早かった、」
「うん。でもこれ、すごく美味しいよ。特にこの、おにぎりの大きいの。が、僕は一番好き」

噛み合っていなかったけれど。手のひらの大きさだけは誤魔化せない。
そんな確認を怠る人吉くんを、嘘をつけない人吉くんを、梅の花よりずっと、ずっと見ていたくなる。

お腹もいっぱいになって教室へ戻る途中、――災いはやって来た。
『敵』が箱庭学園を狙うのか僕を狙ったかは知らないが、どっちにしたって
たまたま引き戸が開けっぱなしの視聴覚室の前を通りがかったのは不幸中の幸い。
その暗がりの中へ僕は人吉くんだけを突き飛ばす。(ごめん、二度としないから、)心の中で謝って、
閉め切った戸の鍵穴に短剣をねじ込み、彼を真似て何度も何度も蹴り込んだ。監禁は完璧だ。
頑丈な防音壁に囲まれ窓もないそこは、そこそこシェルターになるだろう。十分間は問題ない。

さて……、余った暇は、どう潰そう?
突き飛ばす間に抜いた刀を折られ、構えた銃を奪われ、解き放ったあらゆる武装を廊下に叩き落とされ。
腹部に二発、右肩に一発。立っていられず崩れ落ちた。左の太腿を刀が貫通し、床に縫い留められる。
視聴覚室の戸にしたたかに背中を打ち付け、自然と『敵』を見上げる格好になった。逆光で顔は見えない。
暇だ。麻痺だ。憎むのすら時間がかかる。

「ひどしぐ」

助けは呼ばなかった。がくんと勢いで項垂れてしまったせいで、襟の内側がばしゃしゃと鉄臭く濡れる。
口の中が赤黒く澱む。生暖かい血液は空いた穴からも止め処なく漏れ、はしたなく血溜りをおっ広げた。
お弁当の風呂敷の鮮やかな朱色や、不慣れゆえに手を染めた無数の傷の赤みが、溢れる体液の色と重なる。

見る見る内に視界が陰り、爪先から体温が失われていく。

がんがんがんと、頭蓋骨の内側でやかましく和太鼓でも打ち鳴らされている気がした。
まるで一緒に遊んだゲーム。幻聴かと思い至ると、それは本当に背後から聞こえている。
封じたつもりの防音戸がみし、みし、と不規則に軋む度、かすかに響く重い打撃音。
なんとか首に力を入れて振り仰げば、鍵代わりに突き刺した短剣がぶるぶる震えていた。
十分間も待てないのだろうか。せっかちな子。

振り上げた脚に肩の傷を蹴られ、爪先で抉られた時、なぜだかひどくお腹が空いた。
自ら閉じ込めたはずの人吉くんの顔が見たくなった。眠たくなった。

「……、……、…………嘘、」

驚いた。

殺人衝動が――消えている。自覚した瞬間、陰っていた景色が一気に澄み渡る。
『したがらない』豚は見事『したい』人間へと生まれ変わり。四分割は三分割に。
『殺したくない』気持ちはよく知っていたが、『殺したいと思わない』気持ちは初めてだ。
昨晩の夢が叶っている。ありったけの持ち腐れの殺意を、眼前の『敵』にただで譲ってしまうなんて。

……どうして、気付かなかったんだろう。
殺意が消えるのはいつの日かなんて、そんなの幼くして教わる理屈にも当てはまることなのに。
他人に嫌がられる行いは、自分がされて初めて分かる。
殺される時少しでも「殺されたくない」と実感出来たなら、たったそれだけで人を殺めようなんて衝動は消えるのだ。

(今日食べたような美味しいお弁当を、もう一度食べたい。)
(それも人吉くんと、だ。人吉くんの作ったおにぎりを。)
(そうして遊び疲れたら、おやすみメールの後に眠る。)

こんな血まみれの姿で、僕を足止めする刀に手をかけて、友達を監禁しておいてシラを切る。
僕は豚なんかじゃありません、豚箱になぞ入るものか、声にならない声で鳴いて。
友達も、妹も。彼らを犯罪者の友達や犯罪者の妹にしてしまうのは、やっぱり忍びなく。
土壇場一発大逆転、彼らと同じ三分割になれたことが、本当にありがたく。

――二度と嘘をつかないと心に決めたけれど。最後に一言、後悔はない。

右手は辛うじてまだ動いた。手のひらの中で聞き慣れた着信音をかき鳴らす携帯電話を、
握りしめるくらいなら出来た。襟の内側に仕込んだ手りゅう弾の安全ピンを、噛んで引き抜くくらいなら。
余裕綽々で僕を踏みにじる敵に逃げる間を与えず、道連れにするくらいなら。

右手を暖めるバッテリーの熱が、あの懐かしい握手の思い出と重なる。
僕は最期まで怖くないよう、その火照りを友達の体温に想像上ですり替えて、思い込むことにした。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
いつまでも友達と一緒にいられないことなど、頭の中では解っていた。
サンタさんのように不死を信じてはいけないと、彼に言い聞かせられたから知っていた。
でも、でも、だからって――その『いつか』がどうして今日なんだ、と俺は恨む。

これは訓練だ、繰り返す、これは訓練であってくれ。
視聴覚室の暗闇の中へ突き飛ばされた時、頭の片隅で、ぶたれた背中の片隅でそう願う。
背後からの不意打ちに対する受け身の取り方、それはもっぱらここ最近の彼とのトレーニング課題だった
――何度も何度も教え込まれた通り、無意識に身体は動いている。
俺は最適な体勢で転がり、手放した重箱が空しい音を立てて床に落ちた。
入口が乱暴に遮断され、欲視力どころか普通にも機能しない視覚のまま、次いでかすかに聞こえるは――三発の乾いた残響。

「宗像先輩!!」

振り向きざまに床を蹴って突撃特攻、激突激昂。手をかけた丈夫な防音戸はびくともしない。
鍵は外からしか掛けられない安全な場所で、それが何を意味するかは明白だ。
身を挺して守られ、避難させられたことを理解した瞬間、どっと汗が出て息が苦しくなる。
それっきりぱたりと止む騒ぎに心臓が早鐘を打つ。ぎりと噛みしめた唇には、少し、味が残っていた。

「ざっ、けんなっ」

俺はズボンのポケットに手を突っ込んで、携帯電話を引き抜いた。
室内の照明を手探る間も惜しく、青白く光る画面だけが今は頼りだ……全く情けないけれど、
限界まで備えた宗像先輩には及びもしない、身一つしかない自分にはこれが最善の武器だったのだ。

あえなく震える指先で打つ文面は、140字語るまでもなく必要最低限の情報だけを。
不知火ほどではないにしても、今冬生徒会長に就いてから取得したアカウントは、
学園のあらゆるニュースを告知するためにそれなりの知名度を誇っていた。
そしてそれは、指名手配の彼もまた。

『視聴覚室前宗像先輩を助けて拡散希望』

これで一般生徒を遠ざけると同時に救援も呼べる。
不知火がいち早く気付いてリツイートしてくれれば。そして生徒会の仲間や、十三人達に知れたら。

そしてもう一押し、俺は通信履歴から宗像先輩の番号にダイヤル。
すぐにでも彼のもとに駆けつけられる人間がいることを、悟らせなければいけない、見知らぬ敵に。
宗像先輩個人を襲ったかも学園を狙ったかも何も分からない、だから後は、俺が、俺が助けなければ。

「聞こえろ、その人をやんなら俺を倒してからだ、この野郎!」

肺一杯に息を吸い声を張り上げながら、開かずの戸に膝蹴りを入れ続ける。
空いた手で、鍵穴の裏辺りと見当つけた部分を淡く発光する画面で照らしてみれば、
そこは今にも何か貫通しそうにわずかに突起していた。
表側から何か無理に差し入れ、開かない細工でも施しているのか。
歯がゆさに堪らず、俺は再び渾身の力で一歩踏み込――

――ずるり、と唐突に足元が滑った。
爪先が浮き、勢いのついたまま宙に投げ出された身体はあっけなく重力に従う。
埃っぽい床に強かに叩き落され一瞬上下が分からない。受け身など取る間もなかった。這いつくばって
「あ、なんで」携帯電話はどこだ。左右すら覚束ない。
ぶれる血眼をぎらつかせ見つけた光源に「良かっ、あっ、あった」手を伸ばして、また、動けなくなった。

二人を隔てる向こう側、引き戸のレールの下から見る見る間に浸みてくる、赤黒いものは。
青白く点灯する画面が疑いようもなく眼前に曝け出す、ぬらぬらと鈍く光沢するその溜りは。

……あれはもしかして先輩のAB型だろうか、と逡巡し。
悪い足場で踏ん張って立ち上がり、力任せに戸を殴りつけていた。
声を枯らして呼んだ。平手で叩いた。爪を立てて引っ掻いた。握り拳をぶつけた。
頭突きをした。体当たりをした。サバットを使って蹴ったし使わず蹴った。連打連打連打連打連打。
まるで一緒に遊んだゲーム。ゲーム感覚に痛みは忘れて暴力を振るう。

どうして視聴覚室の戸はこんなにも微動だにせず頑丈に出来ているのか、
ああそれは入学当初の風紀委員会との争いを教訓に、校内の音響施設はあまさず“改善”されたからだった……思い出して、思い出して。

(そうだ、雲仙風紀委員長の火薬玉は、水で濡らせばダメになったけれど。
宗像先輩の武装はどうだ?返り血で使えなくなれば反撃の手はない、出血ならそれ以上に。
たとえば俺が池に落とした手りゅう弾、あれは濡らされたせいで威力が殺がれていた気がして。)

これが彼にとっての土壇場一発大逆転か――あるいはただの打ち切りかこの目で見てはいないけど。
目の前で滞りなく進行していく悪夢に、ずっと堪えていた涙が、眼球に迫って押し寄せる。
駄目だった。限界だった。輪郭のぼやけた画面は今に消えそうな灯火に似て、はかない。
忍び寄る嫌な予感は、こんな時に限って吐くように甘く俺の信用を勝ち取る。

もう二度と、俺の知っているあの人には会えないのだろうか。
殺人衝動を抱えて、それ以外にはほとんど執着心を示さない、限界にストイックな宗像先輩。
頑張って早起きして作った弁当だって、普段から滅多と好みを主張しない、
こだわりの少ない舌でめずらしく「おいしい」なんて積極的にほめてくれたのに。
眠るまでメールを交わしたい、早くここから出してほしい、もう一度一緒にご飯も食べたい。
こんな悲劇を見越して『卒業が早かった』なんて―――弱音を吐いたんじゃない。

「先輩、先輩、宗像先輩、なにか言って……、馬鹿野郎、返事しろよ!!」

彼の傍にも俺の傍にも、人が足りなくなってしまう。

やがて手のひらの中で鳴っていたはずの、メールの着信音にはとうとう気づけない。
高千穂先輩から届いたたった一行「助けに行く」との有難いメッセージは、
開封して読む前に、機体そのものを折って壊してしまったからだった。
破片で裂けた皮膚から血を流すくらいに、熱を持つ役立たずのがらくたを握りしめながら、
俺は『こんなに強く力を込めれば、彼がきっと痛い思いをするだろう』と、ひどく的外れな心配に心を焼かれていた。