始終ほがらかに話していた人吉くんは、別れ際の僕の言葉に、ようやく絶句した。
「人吉くん、これ、いる?」
問うて、僕は袖口からタバコを取り出した。
何の変哲もない、セロファンの包装も破っていない未開封の1箱だ。たとえ吸わない人でも一度は
品名を耳にしたことがありそうな、主流の銘柄である。それはどこでも買える代物ではあったが、
誰でも買える品物ではないので、今回はフラスコ計画のルートから手に入れたとだけ説明しておこう。
手のひらに収まる小ささで、表面にはでかでかと注意書きの書いてあるそれを。
僕はいたって堂々と、何の問題もないみたいに、言葉をなくした未成年者の目の前にちらつかせてみる。
美品なのに不良品とは、これいかに。
ただまあ、そんな不良なアイテムではあれど――“僕も彼もまだ吸ってない”“火遊びなんてしていない”
その点で、しめしめ、少年誌における喫煙描写規制の目はかいくぐれたものと思いたい。
ヤニくさく、真面目くさってそう思う。
タバコを吸う前に息を吸って、地上に抜け出るための入口を背に立ち塞がって、今日を振り返る。
くたくたになるまで、人吉くんと遊んでいたその日を、巻き戻して。
地下研究所9階の仮住まいにて、朝食をこしらえようと熱したフライパンに卵をひとつ落としたところ、
唐突に人吉くんから電話があったのだ。夢にも思わぬモーニング・コール。目覚まし時計の
ベルよりもずっと魅力的に聞こえる着信音に胸を高鳴らせ、噛まぬように息を整えてから、耳を傾ける。
「宗像先輩、おはようございます。早くにすみません。……突然ですけど、今日、先輩のとこ行ってもいいすか?」
「おはよう、もちろんだよ、人吉くん。準備して待ってるね。」
ちなみに髪はまだ結わえていないし、顔さえ洗っていなかった。
が、『まだ準備が出来ていない』、そんな瑣末なことは断る理由にはならない。
朝ご飯を食べて食器を洗って、着替えて部屋を片付けて、お茶の用意と空調の調整をすればいいだけだ、今から。
まるで一晩で一生ぶん歳取ったかのような、疲れ果てた電話越しのその声に、三百年後を想像してため息をついてみただけだ。
地下庭園での一日は、地上の学園で過ごすそれと何ら変わりない――否、むしろ土砂降りだとニュースで
聞いたのを思えば、はるかに此処の方が楽園だろう。五月半ばの気候を想定して、空調の設定を整えた庭でふたりっきり。
広いフロアをのんびり散策したり、スプリンクラーじみた水遣りで虹を架けて。
彼が興味を示していた苗の植え替えも、この機にやってみた。外で元気に遊んだ後は、家屋の縁側でひなたぼっこ。
彼が持って来たお菓子と、僕が作ってみた花のお茶をかたわらに用意して、トランプ、将棋、オセロ対戦。
昔も今も流行っているアニメのカードゲームも、手とり足とり教えてもらって。
遊ぶのに熱中していたせいなのか、とうとうその日の夕方まで、彼は手持ち無沙汰に携帯電話を開くことなんかしなかった。
いつもなら朝焼けから夕暮れまでを、地上時間にそって再現するビオトープ気象制御システムにおいて、
今日に限って僕は、時刻の進行の設定のみを解除しておいた。つまりそよ風は吹くし雲も動くが、空の色や気温は変わらなくしたのだ。
わざわざ時計を確認でもしなければ、時間の経過には気づきにくかったろう。
「人吉くん、これ、いる?」
去り際に願う、時よ止まれ。ザ・ワールドとは言わないまでも。
最近そんなノベライズを貸してくれた人吉くんは、まず驚きに目をみはり、たちまち傷ついた表情になった。
ここに降りてきてからずっと、明るくよどみなく会話を進めてきた口を中途半端なへの字に曲げて、顔を強張らせる。
返事に窮しているのだろう。そんな動揺にも僕はかまわず、慣れない手つきでもってタバコのセロファンを破き、銀紙をめくる。
「ああ、わかったわかった。きみが要らないんなら、僕が」
「宗像先輩っ」
がっと手首を掴まれた。口許に運んだ一本とかすかに火花を散らしたライターが、宙に投げ出される。
それらをいっぺんに手放しても動かない僕を見て、人吉くんはやっと、全部わかったような顔をする。
「……宗像先輩、すいませんでした。」
息を小さく吐きだして人吉くんは謝った。
もう悪い子ではなかった。きっと機嫌が悪い子だった、……今朝までは。
――よりにもよってこの僕に頼って、ずる休みをする悪い子。
本当は見当がついていた。電話越しの疲れ果てた声の理由は、きっと誰にでも経験のあることだ。
家や学校のことを綺麗さっぱり忘れて、誰かに甘えたくて、しなくちゃいけないことを全部投げだしてしまいたい瞬間。
たまにつまずいて空回りして、嫌になって、他所に居場所をほしがる衝動。
今日は平日で、学校だって生徒会だって変わらずあるはずなのに。
僕がお茶の用意のためにと昼ごろに席を外し、こっそり携帯から電話をかけてみた時に、すべてはっきりした。
回した人吉くんの番号は電源が切られ、外部の誰とも連絡が取れなくしてあったからだ。
「人吉くん、おつかれさま。」
未成年者の喫煙は、健康に対する悪影響やたばこへの依存をより強めます。
周りの人から勧められても決して吸ってはイケマセン。そんな警告を煙たがる態度だったなら、きちんと怒ろうと決めていた。
(これで少しはきみの負荷を軽くしてあげられた気がする。軽くなれば浮上できる、海底から海面へも。)
(だから沈むほどに重くなったら、また遊ぼう。)
……あとは、見送ることだけ、さみしくて。広げた腕で軽く抱きよせて、
ぽんぽんと背中に手をあてると、耳もとで人吉くんが「あ。はい。せんぱい」と含んで笑うのが聞こえる。
照れ隠しにか離れた後は、直角度のお辞儀で顔が見えない。
「先輩、俺の駄目なことに付き合ってくれて、ありがとう。」
「水くさいな。僕らの仲だってのにさ。本当に水くさい」
水に沈んだ浦島の、海の底でもないけれど。
彼が頭を上げた時にわかる、恥ずかしそうに細めた双眸の、絵にも描けない美しさ。
あっと言う間の楽しかった一日は、三百年の満足にも劣らない。二人でゆかいに寄り添って遊んで、
現実逃避した束の間の休日――その別れ際にはきちんと目を覚まし、箱を受け取らなかった人吉くんは、
おとぎばなしの主人公みたいに、真面目にちゃんとそこにいた。
(家に帰るまでが遠足だとか。楽しい思い出だけは、どうか捨て置かず持って帰って。)