今を時めく人気声優・八人ヶ岳を、文化祭での生徒会主催ステージイベントに招くことになった。
そう何気なく報告した途端、水やりを手伝ってくれていた宗像先輩は目を丸くする。
はずみで手元が狂い、鉢植えを逸れた水がこぼれそうになると、あわてて蓮口を持ち上げた。
何かおかしなことでも言ったか。傍らで色違いのじょうろを傾ける俺が不思議に思っていると、
先輩は身体をわななかせ、上ずった声で畳みかけてくる。
「嘘!人吉くん、僕のこと担いでるんじゃないの。あの、はちにゃんが文化祭に!」
「はちにゃん?」
「……ハチニンガタケジュウジカさん」
「いやもういいっす、はちにゃんで」
聞き慣れない愛称らしきものに一瞬耳を疑うけれど、よくよく話を聞けば頷けた。
『はちにゃん』とは八人ヶ岳を指す、ファンの間で定着した愛称だそうだ――
つまり意外なことに宗像先輩も、それをうっかり人前で口走ってしまう程の愛好家だったのだ。
今まで一度も話題に挙がらなかったために、てっきり無関心だと決めつけていたがどっこい。
「前に映画の吹き替え観て、妙にハマっちゃって。……ってか文化祭、人吉くん達も出るんだよね。楽しみが増えたなぁ!何着て行こう」
「あぁ……、んな好きなら早く教えてくださいよ!なんなら打ち合わせの時、面会とかサイン頼んでみましょうか」
「え。いいのかい、」
めずらしい、ただでさえ興奮ぎみな喋りに拍車がかかる。
もちろん俺は引き受けるけれど(役得。このくらいは許されるだろう)、
先輩は『殺したくなるのは避けたい』なんて遠慮がちに面会だけは固辞した。
「いいんですよ、全然。先輩の名前も添えて貰うんで、」
しかし早々に空想に浸ってか、宗像先輩は花を見つめ、花輪でも贈るべきかとひとりごちている。
……俺といるのに他の子の話、なんて、思い上がりも甚だしいが。
そんな書き損じみたいな勘違いは消しゴムかけて、話題を書き換え。
「――そう言えば宗像先輩。こどもの頃、こういうサインの練習しませんでした?」
「あぁ、あるある!懐かしい、」
やっと鉢植えから俺に視線が移り、しっぽじみた後ろ髪は署名する筆さながらにすらすらと揺れる。
おなじみの仕草にとげとげした気分も少し上向いた。なんとほほえましい。
宗像先輩は顔を輝かせて力説する。
「僕も寝る間を惜しんで練習してたもの。誰でも一度は練習するよね。供述調書への同意のサイン」
「ちっともほほえましくねえ!」
ずっこけつつ突っ込むと、たった今までの舞い上がりはあっという間に消失。
あ、初めて見た、この人のジト目。
「なんだよ、きみがサインの話なんて振るから正直に答えただけなのに。冷酷書道だね」
「“冷酷非道”な」
「でもそんなところも許す、大好きだから」
「斜め上から目線からデレた!」
「許してあげるから――今すぐサインして頂戴。その、練習の成果とやらを見せてね」
凄んだ怖い顔のまま、どこからともなく取り出したるはサイン色紙とサインペン。
ずかずかとこちらへ歩を進め、俺はこれ以上後退出来ない壁際まで追いやられる。
棚に腰がぶつかって、大きな花瓶を背にいよいよ背水の陣。
「それに、僕がもし冤罪で捕まった時はきみに保証人を頼むつもりだからね。署名の練習をして貰わないと」
「う……、分かった、承知しました!書きますよ、書きゃあいいんでしょ」
仕方なくペンを受け取り、監視下のもと俺は一筆啓上。
いつか子ども心に、自由帳に向かってあれこれ頭を悩ませていた頃を思い出した。
たっぷり十五秒、最後をデビルかっこよくはねて。宗像先輩はほう、とひとり頷く。
「もうペンの試し書きは済んだ?人吉くん」
「もう本番で書いたよ!これ!」
冷たい!冷酷非道だ!
でもそんなところも許す、大好きなので。
とまあ宗像先輩は、お母さん曰くの『トリックアートも真っ青なハイセンスな字体』にしきりに首をひねるばかりだった。
まさか八人ヶ岳と張り合うつもりもないが、筆者としては面白くない。
じゃあ宗像先輩こそ腕を見せて下さいよ、俺が要求すると―――彼は本当に制服の袖をまくり上げる。
まくった次の瞬間にはもう、クイズ番組の回答フリップのように自信満々に色紙を持って。
「調書だけに超ショックなお手本、見せたげる。……なんちゃって」
筆記体で走り書いたKei Munakata。……驚くべきは、宗像先輩のサインは案外普通で、
添えられた俺の名前まで(そこはきっちり楷書だった)抜かりなくキレイなことだった。
暗器の修行に明け暮れた学校生活だけに、常日頃字の汚さを嘆いていたというのに。
まるで一仕事やり切った顔で、宗像先輩は姿勢を正す。
「筆記体は国際指名手配に準じて採用している」
「はあ……。っつーかそれはそれとして!俺が書くより上手いじゃねえか、俺の名前……。
まさか、あんた自身のサインに限らずこれも『寝る間を惜しんで練習した』ですかあ?」
冗談半分、面白半分に。上級生が下級生より何かを上手くこなせるのは当然だと思って。
けれど宗像先輩はやりきって緩んだ顔のまま、あっけらかんと――認めるのだ。
「うん。練習してるよ。だって人吉くんに年賀状書く時、悪筆じゃ格好つかないだろう?」
「……、って」
言葉もない。
差し出された色紙には不思議と重みがあり、ペンのインクに重さがあるのかと錯覚した。
何も言えなくなってしまうのは、あこがれの人にサインして貰ったせいだろうか?
だから胸に大事に色紙を抱いて、ミーハーに握手などを求めてしまう。
これからもずっと友達で、ずっとファンで居られる根拠のない過信も生まれてしまう。
そう遠くない未来、彼の努力の血を受け継ぐ妹を書記職に任じるきっかけも、この時点で作られていたなどつゆ知らず。
(追記であと書き。)
「……そんなこんなでサインの練習は欠かさなかった僕だけれど、何ていうか、どんな形であれ有名人にはなりたくないな。名が知れると苦労するよ」
「そりゃあ、苦労もいいとこでしょう。俺も先輩の保証人になって弁護とかお断りですし。そんなことしなきゃいけない状況が既に嫌です」
「だよねえ。結局、僕にとっちゃ名を書くサインなんて無意味そのものだ。だから有名人から“名”を抜いて、きみとユウジンのままでいよう」
「なるほど。そういうことなら承知しました。」