私は黒神めだかに恋をしている。
『同級生のほとんどはそこに行くから』との理由で入学した箱庭学園での生活にも慣れ始めた頃の話だ。
忘れもしない。生まれて初めて彼女と言葉を交わしたのは、職員室へと続く廊下を重い足取りで進んでいた時のことである。
その時の黒神めだかは、事故的にか、風紀委員会の出で立ちをした女子と、生徒会制服姿の男子、彼らと三人四脚のように手錠をかけていた。
そう、そんな動きづらい状況だったにもかかわらず、
大量の書類を床にぶちまけて困っている私に彼女は、手錠で繋がれていない方の手を伸べてくれたのだ。
……否、その言い方は間違っているか。正しくは「大量の書類を床にぶちまける困った私」だ。
ぶっちゃけあの時、私は自ら手を離して、運んでいたそれらをばらまいていた。
魔が差しての通り魔的犯行である。特技も目標も才能も友達もなく、
人に語れるものと言えば名前くらいしかないこの私、黒川うろ子は、クラス委員(推薦で押し付けられた。)
として集めたクラス全員分の進路調査票を、職員室に運ぶ最中だったのだ。
嫌な仕事だった。その日は進路調査票の提出〆切で、クラスメイトが明確なビジョンを何行も書き連ねている束の中、
一枚だけ、名前しか書いていないものがあるなんて。
こんなのを先生に持っていかなきゃいけないなんて、なんて、いらいらしてて。
たまたま人けの少ない曲がり角で、不覚にも――手放す瞬間を、ばっちり目撃された。
舞い上がる書類のすき間で視線が合い、ぱっと立ち止まった生徒会長がすぐに駆け寄ってくる。
全身が強張る。目の前は真っ暗だ。指先まで恥ずかしさで熱くなる。違う、普段はこんなんじゃなくて……
けれど、とうとう去り際まで、彼女は一言も叱りはしない。
どころか私を心配し、事態を収拾しようとする。凛とした振舞いに目が釘付けになる。
「しかし、怪我がなくて本当に良かったな。こやつらといい貴様といい、
どうも足下が滑りやすくなっておるようだ。廊下の補修も予算案で検討すべきかな」
「いやめだかちゃん、俺達の場合、足が滑ったっつーか実は……」
「しっ、口を滑らせないで下さい。犯人の名前を出すと厄介ですよ、不機嫌になるのでしょう」
……どうやら、ここに来るまで一悶着あったようだ。
が、雲の上の人だった生徒会長は最初から最後まで、私だけを見て、私を労わる。目から鱗が落ちる……。
投げだした書類を受け取り、再び立ち上がった時――見える世界の高さが変わった気がした。
思い出が噴き出す。その人が学園の生徒会長に当選した選挙戦でのこと、壇上で赤い飾り花を添えられた
名前を見て、自前の名前は少しだけ似ているのに、こんなにも中身は違うのだとため息をついたこと。
気づけば恋に落ちていた。完璧な彼女を思うだけで、何もかもが苦にならなくなり、幸せな気持ちになれる。
『乙女心と秋の空は変わりやすい』と聞くものの、結局私はそれから心変わりすることなく、二学期を迎えた。
そんなある日、とびきりの秋晴れの空の下開催された体育祭にて、ずっと完璧に勝ち続けている彼女が、
なんと全校生徒を敵に回して綱引きで勝負すると言う。
一途に恋する私はしかし、そんなお誘いにはさほど心が躍らなかった。当たり前だ。
彼女のことを好きだから、私は彼女を応援したい。
今思えばそれは恋心ではなく、信心だったのかもしれないが、だからって誰に迷惑をかけるじゃなし。
運が左右する競技ではなく、何度も練習した行進のように、彼女は当たり前に勝つべきなのだ。
がんばれ。祈って、強く引かれた綱からあっさりと手を引く。
大掛かりな大舞台での全校生徒との対戦……大戦は、三分とかからず決着した。
勝者はやはり黒神めだか。なんだか、ひどくほっとした。遠目にでもわかるまばゆい満面の笑みを見て、
その勝利を心から喜んだ次の瞬間、私は信じられない光景に目をみはる。
足をつけた地の引力を軽く上回り、水平に引っ張られる暴力的な勢いに誰もが綱を手放した中、一人だけ綱にすがっている。
ずば抜けて体格がいいでもない、中背の、何の変哲もない普通の男子だ。
それなのに鮮明に印象に残っているのは、恋したあの日、隣で一緒に手錠に繋がれていた……。
ぼろぼろに負けて、皮の擦りむけた薄赤い手のひらで汗を拭いながら、それでも彼は強気に笑っている。
どうして、彼女の勝利を喜びながら、敗北感なんてこれっぽっちもなさそうに。
――二人を繋ぐ赤い綱が、運命の赤い糸に見えた。
そうだ、彼の赤い手のひらは、あきらめず、綱を、絆を辛抱強く手繰り寄せたせいじゃないか?
あきらめて綱を離したその他大勢と違って。
黒神めだかに恋をして、いた。その日を境に、私は恋をやめた。彼女に負けたのではなく、
彼に負けたのだと思い知らされたからだ。瀬戸際で自ら手を離し、身を引いてしまった現実を直視するにつけ。
……赤い線で結ばれる、繋がれた彼と彼女を、心から綺麗だと思った。頑張らなかった私は、大して汗をかいていない。
それでいて止め処なく頬をつたう、大粒の滴のしょっぱさに唇を噛み締めながら。
地面にへたりこんだ高さからみる景色は、退屈だった昔に戻って、巻き上がる土煙で薄くぼやけて見えていた。