知恵の話

「僕を気味悪がらずに遊んでくれたのはきみが初めてだよ、善吉くん。だから殺す」
「ええ、それは無理だよお。」

ままごとセットの包丁を突き付け訊ねたら、彼はへらへら笑いながらそう、断った。
子供の足でなくとも一日かけてようやく全ての科を回れるくらいの広大な箱庭総合病院、そこで診察を待つ間、
出来るだけ人間が目につかない場所をさがして、たどり着いた託児室での未知との遭遇――既知ならぬ、善吉との遭遇。

監視カメラに守られただだっ広い託児室に一人っきり、彼はよっぽど退屈していたようだ。いきなり不法侵入
(鍵は開いていたが)した僕にも、目を数度瞬かせただけで、すぐに「おにいちゃん、あそぼ」と駆け寄り、
あったかい手を広げて無防備にも無鉄砲にも擦り寄ってきた。まるで弟のように。丸腰の素人のように。

「ねー、おにいちゃん」
「お兄ちゃんじゃない。形だ」
「けいおにいちゃん!」
「……」
「ぼくは、じぇんきち」

……まあ、いいか。大人であれ子どもであれ、そもそも「人間」の居ない場所を探していたはずだが、今日は妥協。
誤差の範囲内。舌っ足らずで二足歩行も覚束ないこんなイキモノ、
殺意を実行に移さずとも、勝手につまずいて積み木の角にでも頭をぶつけて事切れてしまいそうだし。
人間ってより小動物。むしろ虫。だから殺意は、芽生えない。
……年齢と血液型と名前、胸元に付けた管理札に視線を走らせながら、そんなことを祈る。

「……いいよ、遊ぼう。善吉くん」

無害な「おにいちゃん」を装って、僕は相手をすることにした。
幸い診察までは、まだたっぷり待ち時間がある。医者は。列成すほどに腕利きだ、大病院らしい
……いや、フラスコ計画とやらの異常な思惑に与す以上、「人間診断」はすでに始まっているのかも。

曲がりくねる金色のちえの輪をあっさりと解いて見せれば、彼は大げさに手を叩いて、
全身をゆすって笑った(ものの接続の弱くもろい「急所」を見つけるのは、生まれた時からの得意技だ)。
僕は黙ってそれを眺める。繋がりを断たれたちえの輪は、フードの紐を締め上げて、頭とその下を分割する想像に結び付く。

もしかしたら、たやすく殺せる彼は単純に擬似餌で、
これら一部始終はカメラ映像に記録されており、のちに診断を下されたりする――のだろうか?
僕が出会う人間をどんな目で見ているか、調べるために。小動物の命を犠牲に、僕の生態に迫るために。

「けいおにいちゃん、ね、次はこれをやってみてよ」
「……うん。ごめんね、壊すのは得意でも、生み出すことは苦手なんだ」

次々と差し出される赤や黄や緑のブロックを、やんわりと押し返す。検査の拒否。延命の中断。
だから僕は、ああ言ったのだ。ならば神様お医者様、お望み通り、冤罪演じてみせようかと。

「僕を気味悪がらずに遊んでくれたのはきみが初めてだよ、善吉くん。だから殺す」
「ええ、それは無理だよお。」
「……」

苦笑、という言葉の意味もおそらく知らないで善吉は苦笑した。それも即答での否定。
僕にとって、異常な生まれそのものを否定されたことはあっても、嘘を信用されなかったことは初めてだ。
殺すと言えば例外なく、みな遠ざかってくれたのに。
あるいは、舐めてかかられているのか? 見くびられたものだ、たとえおもちゃの包丁でだって、
この手ならば命を絶つことが出来るのに―――ってか、意味がよく分かっていないだけか。

ちょこんと床に座り、切っ先を見つめる目線の高さは、僕よりもずっと低く無邪気だ。
五歳の僕が二歳の彼に出会って間もなく投げ掛けた殺意、それもまあ大概子供らしい、
大人げないものだったが……その意味を受け止めた上で返事をしたのなら、聞き捨てならない。

殺す、に対しての「無理」。どういうことだ?
僕は誰をも殺せる、人間を見れば確実な殺害方法がひとりでに思い浮かぶこの頭、どんな時でも誰に
対しても、それは絶対のもののはずなのに。それはつまり、きみの方が、僕より一枚上手ってことかい?

「いち、わえ…?」
「善吉くん、きみが僕よりすごいってことさ」
「すごい……。ぼくが? なんで! そっちのが、背も大っきくておにいちゃんじゃんか」

自らの頭の上に小さな手のひらをかざして、互いの身長差を比べてみせる仕草は、必死ですらある。
何故だろう。監視カメラだけに見守られる、お守り役のいない託児室にじっとおとなしく居ることや、
いきなり入室した僕への懐きよう……まさか彼は、年上に見える者を待ち望んでいた、とか?
いまいち要領を得ないものの。

「じゃあ、どうして、きみを殺せないんだよ」
「無理だよ。できないよ。だってもう、友達だから」

包丁の切っ先の向こうで、花を抱えた小動物がすっくと立ち上がった。
枯れない花。一度は突き返した赤や黄や緑の無機質なブロックは、花に生まれ変わって再び手渡された。
外されて自由になったちえの輪はブロックの角に引っ掛けてあり、金のリボンのように花を彩る。
それを僕に、ぐいぐいと押しつけて、へらへら笑う。
あああ。
なあ。う、あ、やだ、言葉に詰まる。ぐちゃぐちゃだ。とけそうだ。このイキモノ、この人、だったんだ。
僕は今日を迎えるために生まれて、検査なんかするまでもなく、早く帰っておもちゃを持ってまたここに、
お兄ちゃんらしく、貸してあげなきゃ――

どすっ、

「……え、ぁっ」
「うそ、」

彼の胸に、注射器が深々と突き刺さっていた。動きを止めて固まった小さな身体が、そのまま仰向けに床に打ち付けられる。
そこまで見届けて、僕も僕自身の胸にじわりと広がる鈍痛に気が付いた。太い注射針が凶暴にきらめく。
生まれて初めておそろいで身に付けたのが、こんなものだなんて、そんな、そんな。

立っていられない。
視界の隅をよぎる託児室の入り口は扉がいつの間にか開いていて、白衣を着た大人たちが雪崩込んでくる。
ヒトヨシセンセイにバレたら大問題だとか、早く連れ出せ、引き離せ、とか……もう駄目だ。くやしい。
積み木のお城もまだ未完成なのに、もうちょっと、遊びたかったな。
こんな綺麗な花、持って帰って、恋にも見せたかったなぁ。友達がくれたんだよって。
 
 
「……以上が宗像形の『診断』結果です。
あれ以上の接触は、確実に殺人衝動を失わせてしまっていたでしょう」

「だろうね。彼はまだ子供だし、思い込んでしまうのも無理はない。
だがあんな初期段階で救われちゃあ、困るんだよ。我々の研究のためにはね」

「……ええ。では、今後の診療は如何しましょう」

「ううん、どっちもの記憶を消してあげたから二度と来るかも分からないけれど、
万が一にも出頭したら追い返せばいいよ。『人殺しが人助けをする場所に来るな』。そらんじるのも簡単だ」

「ええ、そのように。人吉先生にも内密に。」

わずかばかりの知恵を付けてしまったばかりに、可哀想な子供たちは。
ねじ曲げられ、取り外された歴史の輪が新たに繋がるのは、十三年もの待ち時間の後のことだった。