『スマイル¥0』。
ファストフード店のそばを通りすぎる時、入口の目立つ所に貼られた赤いポスターを眺めて、王土は出かかったため息を飲み込んだ。
何の味もしない。当たり前だが、無味無臭だ。喉ごしも歯ごたえもあったものじゃない。
そこでふと、食べていくことに関して廃棄物にすがっていた過去の時代を顧みた。
ため息ひとつでお腹いっぱいになれるなら、今頃、世界中のどれだけの憂鬱が世界中のコックに集中砲火していると言う話である。
集中砲火。ポスターを尻目に、そんな言葉が似合う、数ヶ月前の彼女のイメージを思い出す。
フラスコ計画は、夢と消えた。とは言っても、夢と表現するにあたって王土に一件を開き直るつもりは毛頭ない。
謝罪は間違いなく本心から出た言葉だったし、取り返しがつかなくなる前に自分の暴挙を止めたと言う点においては、
むしろ助け船を出されたのだとさえ今は思えるくらいだが。
あらゆることに未練は無いと言えば、嘘になる。結局最後に得られたものと言えば、ひれ伏した床の冷たさくらいだ。
動転し過熱した思考を落ち着かせるには、それは持って来いのアクションだったけれど。
現在、王土が直面する問題はため息どころではない――因果応報とも言うべき後始末だった。
つまり、フラスコ計画の犠牲者について補償すると許しを乞うた自らの言葉を、証明し実現すること。
理事会が四分の三を負担して、在学期間中に個人に支給されていた計画研究費も返済に充てて、
なお残る莫大な四分の一額の借金。それでも王座を引退した今、憂鬱でありこそすれ、他の誰をも恨む気にはなれなかった。
理由は目に見えている。心得ている。言わずもがな、未だに心は彼女のことを――
「“別に、私は都城王土が大好きではないからな。くれぐれも勘違いするなよ”」
凛っとした声が、不意に低い位置から。それがかつて求婚した本人ではないと分かるのは、まさにその人と一緒にここまで来たから。
考え事をする内に目的地に着いていた、頭上の澄んだ朝の空に似た青白い髪には、起き抜けからずっと寝癖が付いたままだ。
「えへへ、出勤早々ぼーっとしてちゃ駄目なんだからね!秘技・ツンデレアラーム、これで目が覚めたでしょ?」
「……おう、」
「今日もよろしくお願いします。頑張ろうぜ。じゃんじゃん稼いでちゃちゃっと完済しちゃおう」
「……応。」
ツンデレだといつか実兄に聞いた彼女の声音をまね、語り部は軽やかな足取りで店の裏手へと向かう。
巻いていたマフラーを外す瞬間には、もう私服から仕様の制服にも着替え終わっている。
本当に慣れたものだ、もう一度ため息をつこうとして――しかし王土は気が付いた。
行橋がこの場に順応したのは普通のことで、自分がこの場に適応できていないのが異常ではないか、と。
借金。スマイル¥0。アルバイト感覚ではないアルバイト。
命令の積み重ねと、もらえるお金と、思い通りに操れない他人と――命じなくてもついて来てくれた、クラスメイトと。
ありふれた町のありふれたレストランは地下と違って明るく眩しく、そこは昼間になればにぎやかで来客も多かった。
慣れと言うものは怖い、と王土が思ったのは、同級生と、生まれて初めて金銭を得るために労働に従事しはじめて三日めのことだった。
もちろん二人は幼馴染でもなければ恋仲でもない、王土が箱庭学園に入学して以降に街で行橋を探しあてたことからも、
さほど長い付き合いでないことは明らかだ。
それなのに王土は、気まぐれで位置を移した時計を探すように間違える。
行橋の姿を追おうとして、視線は自然と赤いマフラーを探してしまうことを、頭で分かっているのに繰り返してしまう。
フロアで彼を見つけるには、その身体にはいささか裾の長い、黒くひるがえるエプロンを目で追わなければならなかった。
「いらっしゃいませ。三名様でしょうか?」
「ええ」
「こちらへどうぞ。禁煙席をご用意しております。」
案内をする行橋に、お客が少しだけ驚いた顔をしたように、遠目には見えた。子ども+両親=三名様。
客は、ああ、子連れだから何も言わずとも望んでいた禁煙席に通されたのだ、程度に思うことだろう。
ただしそこには、少しばかり異常なカラクリがある。
『王土のそばに居てボクが読み取れるのは、たかだか表層意識くらいだよ。
それこそ、どこの席に着きたいとか注文の追加とか、グループの人数。ほとんどが瞬間的な思いつきだね。』
『……お前は、いいのか? ただでさえ他人と機械に囲まれて、無理になるなら』
『無理しないで稼げると思ってるの?』
返す言葉もなかった。
なるほど語り部はいつの世も、相手を黙らせるだけの物語を聞かせねばなるまい。
かくて、受信し読心する才能を積極的にサービスに応用しようとの読みは当たり、結果的に、
気のきく店員として先輩方からも重宝されている。これはお互いの間でも利用出来た、
王土が時おり周囲の作業状況を発信で伝え、手つかずになっている業務をこなすことも出来るのだ。
有無を言わせぬ発信能力のおかげで、どうせ重大なプライバシーには触れたくとも触れられないから、と本人は気楽そうだが。
別のテーブルで注文を取りながら、気落ちしてしまうのには歯止めがかからない。
「……では、ご注文は以上の五品でよろしいですか?」
「ん、それでいいよ。」
「ご用意いたします。少々お待ち下さい」
注文内容を記した伝票を手に、席を離れる。心なしか足取りも重い。ため息を飲む。
どれだけ張り切ったところで、どうしてもそれ以上を行橋に押し付けている意識は否めないのだ。
自身に特に出来ることと言えば、力仕事や、不意にその身に迫る危険を回避させる程度で――
「――痛た…ッ」
包丁を取り落とす派手な金属音と――ぢ、と火花を散らせる小さな音。
厨房とフロアを仕切るカウンターに、コップと水を取りに来た行橋の目の前で――
彼女が指を傷つけ、小さく悲鳴をあげるのを聞きつけて――
王土はほぼ無意識に能力を発揮していた。痛みの信号を相殺するだけの発信で干渉し、伝達を遮る。
一瞬だけ身体を強張らせた行橋に、彼女はすぐに包丁を拾って、恥ずかしそうに笑った。
「ごめんね、大げさに声あげて。びっくりした?」
「……っ、コップ、落としそうでしたよ。それよか姫島さん、一昨日と同じとこ切ったみたいですけど……大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫!わたし、すかんぴんだけど絆創膏だけは蓄えがあるんだから」
張りつめた胸ポケットから取り出した絆創膏で、すぐに処置は済む。危うい手つきでの作業は再開された。
ちなみに、アタッシュケースに現金ではなく絆創膏を詰めて
毎日出勤する根性が彼女に備わっていることをかんがみれば、これ以上の心配は無用だろう。
カウンターのそばで行橋とすれ違いざまに目が合う。
手の中の伝票の束を思わず握りしめた。接客の時とはちょっと雰囲気の違う、はにかんだ笑顔をもらう。
そこにある心がどんなことを伝えようとしているかはさっぱり分からない。
推し量ろうとする頭に、朝に見かけたばかりの、ありふれた赤いポスターが割り込んで像を結ぶ。
客足が途切れた時、行橋がめずらしく雑談を持ちかけて来た。私語はとくに禁止されていないが、
二人がここで交わす会話といえば、無味無臭の業務連絡がほとんどだ。
食器類をすすいで拭いてみがいて、流れ作業の合間に、それとなく。
「そう言えばさ、姫島さんが教えてくれたんだけど」
行橋は姫島と仲が良いらしい。らしいと言うのは、実のところ王土の主観でしかないのだけれど、とかく
二人は同じ職場の先輩後輩として非常にうまく機能していた。基本的に彼女は誰にとっても良き同僚であり、
付き合う上で障りないが、先のことは単純に相性の問題のようだ。赤いマフラーと、赤い絆創膏。
お互い『巻く』のが好きで意気投合するのかと、行橋にも読めないような突飛な想像をめぐらせる。
「前は、通りの向かいのハンバーガー屋さんで働いてたって。
包丁使わないと無敵状態でスターまで昇格したのに、長いものに巻かれたくないって急に辞めちゃったとか。」
「ああ、やはり巻くほうが好きなのか」
「は?」
「独り言だ。が……どうだろう、ならば姫島女史は、ここでは長いものに巻かれていないと言うのか?」
「分かんない。けど、楽しそうに見える。あれでリセット出来たって、にこにこしてたんだからね。」
自分のことのように瞳を輝かせて語る表情が、きらとグラスの面に映り込む。
なるほど、笑顔が魅力的なわけはそういうことだったか。本人は年上だとしか言わないが、外見は同年代。
ひとたび向かい合えば、どんな傷があっても視線は自ずと顔に引き付けられ、
次の瞬間には身体のどこを怪我していたのかさえ忘れてしまいそうになる。
なればこそ、傷一つないアタッシュケースも肌に巻かれた絆創膏も、彼女を飾るただの脇役に過ぎないのだろう。
「姫島さんはプロだよ。歩くスマイル¥0って感じ」
「まあ、そうかもしれんな」
「さて、ここで質問。こんな話を急に持ち出して、ボクはいったい何が言いたいのでしょーか」
「、」
「王土さ。全部終わっちゃってから、全然笑わなくなったよね。」
終わってから。終わってから。……とんだ急転直下。シンクに横たわる、最後のコップをつかみかけた手が動かない。
流しっぱなしの水道からは啜り泣くような音が漏れ続け、洗剤の泡は排水溝へと吸い込まれていく。
店内に流れている歌詞のない音楽が、やけに大きな音量で聞こえた。
「笑う練習しようぜ。ちょうどお昼休みだ、返事はいいともで良い!」
語り部は、うきうきと拳の親指を立てて見せた。
時計の針は午後二時を回っていた。
いつもの昼休みの時間だ。午後からのシフトの人となかば入れ替わる形で昼休憩に入る。
めずらしくスタッフルームには二人きりだ。部屋には大型のレンジが備え付けてあって、誰でも勝手に
持って来た弁当を温められるのがいい。行橋は『電磁波でも温められるんじゃないか』とよく冗談めかすけれど、
それはかなり気が進まなかった。そうでなくとも、気どころか箸も進まないのは。
「いざ練習だ。特訓だ。スマイル¥0の」
「……今か?」
「今。誰もいないし思い立ったが吉日ってことで。さあ笑えほほ笑め爆笑だ、545キロバトルを目標にレッド力ーペット!」
満面の笑みでさりげなく命令された。
語り部はテレビのお笑い番組にも通じているようだ。64世代のゲームっ子だとばかり思っていたのに。
自信満々に声高に宣言する行橋の頬に米粒が付いているのには、もう少し目をつぶることにして。
「……では、思った通りに感想を述べてみろ」
意識的に、――笑ってみる。
「違うね」
一蹴された。のど自慢の鐘の2音を聞いた。頬に米粒を付けた同級生から、
身長差の問題でうんと見上げられつつ、きっぱり駄目出しされた……。
「違う違う、すっごい勘違いしてる。その笑い方じゃあむしろ、スマイルやるから有り金出せって感じしかしない」
「馬鹿な!」
「思った通りに感想をと言ったのは王土じゃないか。マジでそう見えるんだからね、王マジで」
「比較級……?」
最上級もあるのか。皇マジとか。
さながらオーディションで審査員席にどっかと構える大御所ばりに言い切る行橋に、視界が暗転しそうになる。
「しょうがないなー、ボクがくすぐったげようか?」
「絶対にご免だ。断る。」
「“悪いことしたら、ごめんなさいだろ”?」
「くすぐるのを拒否しただけで俺を悪者扱いするんじゃない!」
「えへへ、冗談なんだからね。でも、そうでもしないとスマイルくれそうにないし」
……今日の行橋は、おかしい。気まぐれに提案しておきながら、あきらめ悪く粘る。ご飯粒のせいか?
そんな風に突飛に突飛に飛び飛びに、思考はちぎれ。
「、うに」
頬に触れた。飯粒を取り上げながら俺は言った。
「俺にも出来ないことは、ある」
語り部でもないのに黙らせ、黙って箸を進めた。
そうして弁当箱が空になる頃まで、語り部もまた語りを中断していたが。
「……ごめんね。でも、ボクは笑ってる王土が見たいだけなんだからね?」
のろく噛みくだいていたたまご焼きが、喉につかえそうになる。それは無味無臭のため息とは違った。
黄金色に焦がれた中に微かに残るたまごの生々しさと砂糖の甘さ、塩気、そんなものものの味がしみ渡る。
今朝、それを焼いたのは思い出してみれば行橋で。
行橋の言葉を噛みしめたなら、喉越しも歯ごたえも、当たり前のように行橋の味がする。
「……と、そんな感じで、おしまいです。」
そんな感じで。昼休みの一部始終を、簡潔に一分間にまとめて語り終え――
行橋は、ほうっと息をついた。ごみの袋を片付けに王土が店を出たわずかなその間、
ピアスのように絆創膏を巻いた耳を、じっと彼の話に傾けて―――やがて姫島は、ひどく深刻そうに口を開いた。
「難しい。都城くん、やっぱ一筋縄じゃいかないね。そうとう守りの堅い城塞とわたしは見た。」
「そうですよう。ボクがどれだけ告っても、あいつはツンデレだと勘違いして絶対に信じない。
……こっぴどく振られたって言うのに、どうしても初恋の人が忘れられないらしくって」
「それはそれで無理もないね。わたしの初恋はまだだけれど、わたしは今までに巻いた絆創膏の数を忘れていないよ」
「それはそれで、一途です。」
王土が居ないために底まで透ける思考は、言葉と少しも違わない。
姫島は照れたように、まあなのね、と笑う。
「でも、都城くん、わたしはすごく良い子だと思う。行橋くんのために手加減なしに必死になれる。今日も……手を尽くしていたね?」
「……もしかして、ばれちゃってますか?」
「なんとなく。ただしちっと手加減出来なかったぽい、わたしまで痛くなくなったから」
痛みを遮る――電磁波の干渉。
否定はしない。その代わりに、ちょっと時間をかけて王土と将来のことを考えて、行橋はうなずく。
姫島はちらりと店の裏口に目をやって、誰の出入りも無いことを確かめてから言った。
「詳しいことはどうでもいいけど。多分、わたしが傷つくとあなたも傷つくのかな?」
「……ええ。」
「じゃあ、これから包丁には頑張って気を付ける」
「………」
「だからあなたも頑張って。後輩が傷つくと、先輩も傷つくもんだよ。
……とまぁ、おばちゃんの説教はこの辺にしとこうか。とりあえず今夜は酔わせて寝込みを襲っとけ。
目指せ落城、トロイの木馬戦術だね。うまくいったら、明日また戦果を教えて頂戴」
「……どうも、お知恵をありがとうございます。」
けらけら、気楽気楽、顔を見合わせて笑う。そんな光景ををたまたま裏口から戻ってきた王土が見つけ、
ものすごく複雑そうな表情をしているとは露知らず。
悪に手を染めたかわいそうな二人は、手をつないだのだ。一筋縄ではいかないから。
めでたしめでたしでは終わらなかったから。何よりも不幸だったのは。否、せめてもの幸運だったのは。
明日もこの場所へ働きに来る口約束をしたことと、
二人がこれからも多くの時間を一緒に過ごさねばならないだけの、借金が未だ残っていたことだった。