もらいな木

この目で見ているはずの光景なのに、僕はにわかに信じられなかった。
枯れ木のように突っ立ったまま、夢でも見ているんじゃないかと思った。

「自分のために誰かが傷ついたら、めだかちゃんは絶対に泣くんだよ。」

傷ついたら、で一息ついて。
出会ってから幾度となく繰り返すその名前を再び口にした時、人吉くんは涙を溢れさせた。

さっきまでの強気な態度はどこへやら。
戦う間、一年一組は思えないほどのあの落ち着きも、
性分ではなく無理に神経を尖らせていただけなのか―――とにかく、
いざ僕たちが助けに手を伸べたことが、辛うじて保たれていた緊張を緩ませてしまったらしい。
ようやくあらわになったその隙から水滴が零れ落ち、弱った蝉のように、じわじわ鳴く声が止まらない。

居合わせた負け犬軍団メンバーは驚きで言葉もなく、
なかば喧嘩腰で割って入ったはずの雲仙くんさえ、いまいましげに舌打ちをして動揺を隠せないほど。
ただ一人――だんと駆け出した僕を除いては。

転ぶかと思った。小さい一年生に体当たりみたいに突撃すると、
状況が飲み込めないらしい彼は鼻声のまま、え、わ、と間抜けた悲鳴をあげてよろめく。
ごめん。僕が悪かった。だって困っているんだ。
まさか助けに来たことで、泣かせてしまうなんて夢にも思わないし。

「なか、せん、?」

泣かせん、って頭の中を言い当てられたような。
むなかたせんぱいとか細く呼ばれ、僕はもう右手で彼の手首を掴まえていた。
左手は制服のポケットに隠していた包帯を引き抜き、
ぐるぐると量を巻き取ったそれをあわてて人吉くんの顔面にばふりと押し付けた。

一刻も早く、涙を拭いてあげないと。
僕は彼の友達で、上級生なのだから――いろんな正義感と言い訳が一瞬のうちに脳裏をよぎるけれど、
ぐしゃぐしゃに濡れた頬や鼻の頭を力任せにぬぐえば、五秒も待たないうちに身をよじられる。

「む、ぐ、ぶはっ!む、先輩っ、息出来ねーす」
「うわ、わっ!ごめん、大丈夫かい、悪気はなくて」

くぐもったうめき声に、僕はホールドアップで飛び退いてしまった。
知らぬ間に鼻と口をいっぺんに塞いでしまったらしい。身の毛もよだつ話だ。
助けに入った下級生を窒息死させるつもりか……やっぱり僕は僕だった。
ちょっと仲良くなったからって調子に乗るから。
しかし諦めの悪い僕はまた、ばらけた包帯を手繰り寄せてもう一度やり直そうとする。やり直そうとする、手が止まる。
こちらを見つめる涙まみれの彼があんぐりと口を開け、目を瞠り、今度は幼子につつかれた蝉のように笑い声を弾けさせた。
なんだ、あれ、全然笑ってる。

「なあんだ。泣かないでよと今言おうと思ったのに、その様子ならもう平気だね、人吉くん」
「あはっ……、あのなあ、宗像先輩!すいません、借りますよ。じっとしててください」

自分の行動ではなく、初めて他人の言葉で全身が硬直した。
丸めた包帯をひったくられ、視界が真っ白になっていた。
いつの間に――涙と鼻水でべちゃべちゃに汚れた己が頬を、綺麗にぬぐわれていた。
まるでさっきのやり直し。暗器を借りていいか聞かれ、殺しかけて、全力でやり返され。

「だっせーな宗像ァ、助けに来たんじゃねーのかよ。一年坊にもらい泣きなんかしやがって」

ざわめいた空気に真っ先に割って入る高千穂の揶揄に、僕はようやっと状況理解。
包帯で、癒すみたいに僕の涙をせっせと拭いてくれている人吉くんの、おかしな泣き笑いは僕のせい。
どうやら人吉くんの泣き顔に無意識につられて、泣いてしまったらしい。

だって本当に衝撃的だったのだ。
銃を突きつけられても槍で穿たれても、何度も根気よく歯を食いしばって立ち上がった彼が、
こんなにあっけなく平静を決壊させるなんて。人吉くんにもらい泣くなんて。
何かしてもらった時には、何と言えばいいんだっけ。

「……、あ、あ、あの。ありあと、とよしくん」
「く、くく。先輩、なんか鼻声えっす」
「そっちこそ、」

お互い様に、枝垂れるようにこうべを垂れる。
物言う口もさることながら、さっきからぶれっぱなしで使い物にならない視界に、
僕は仕方なく頭の中で、この新しい体験と古い記憶を照らし合わせてみる。

もらい泣きなんて、これが生まれて初めてだった。
どうやらこれがそうなのか。頬をこすって濡れた手のひらの、くぼみに薄くたまる滴を見つめる。
初めて出来た友達から、初めてもらったものだった。
涙にくれた人吉くんがくれた。乾いた地上に親近感が湧いた。
庭でのんきに水やりなんてしてる場合じゃない、いざ、これから地下最奥の王を目指すと言うのに。

「……ああ、泣いてる暇はないよね。
さっさと下へ降りようか、人吉くん。」

(彼を手助け、ここを出て、一緒に日の目を見たいと思った。)