凍る。

僕は、電話というものが好きだ。かけた己からかかる相手へ、誰かと話せるその機械。
生まれてこのかた他人とのまともな触れあいを実感したことのない僕に、ときに、
それ自体が話し相手であるかのように手離しがたい錯覚さえ起こさせると言っても過言ではない。

『人と人の仲介』を突きつめたところの文明の利器。便利なところも不便なところも、
長短あわせて僕はそれが好きなのだ。呼び出すときのコール音も、呼び出される時のやかましいベルの知らせも。
受話器越しの少しくぐもった声も、耳元で囁かれているような吐息の響きも。
何より一番愛すべきは――『あなた』と言葉を交わしているのに、あなたを殺さずに済むだなんてことだ。

だから僕は今日も、飽きもせず。
あなたの目を見ることなく、短縮番号を調べもせず、覚えた呪文をダイヤルする。
ただし実際に口にするのは、暗器の取り扱いを教わっていた頃と変わらない、上下関係を保つための形ばかりの敬語。

「……もしもし、こんにちは。宗像です。」

遠い塔に住まう、黒髪の魔法使いに話しかける。手なぐさみに指先に絡めた電話機のコードを眺める間にも、
このありふれた凶器を用いて、どのようにあなたの首を絞めるかを衝動的に思い描きながら。
 
 
単調なコール音を三度数えてからの開口一番、向こう側で朗々とうたいあげる声の調子は、
今日も今日とて変わり映えしない。

『やー宗像くん昨日振り! 今日は心なしか声がかすれているように聞こえるんだけど、
もしかしてまたしてもお庭の空調が乱れちゃって、草木がしおれるならまだしも君自身が風邪など引いて
しおらしくなったんじゃないのかい? 気のせいかな? 僕がまた鍛え直してあげようか?』

「それは気のせいですね」

『ああ、そりゃあ良かった! 吉報をありがとう、何せ内線でここに電話をかけてくるのなんて
宗像くんくらいだからね。いくら君が外の世界から遮断された学園の地下にこもりきりとは言っても、
細菌ひとつ通さない密閉空間ってのでもないんだから、被験体が運悪く風邪でも引き当てちゃいないか、
管理人が憂い心配するに越したことはないという訳だ。しかし健やかで何より、これも僕の指導の賜物かな!』

「それは気のせいですね。」

二度目は面倒がらずきちんと句点を置いて答えると、表情の見えない彼が含み笑いをしたのが分かった。
よく笑う男なのだ。まあ蛇足としてこれは、能面のように表情に乏しいと(誰にとは言わない)かつて
評された僕の意見だから、世間から見てもそれなりなのかは分からない。
しかし、電話越しのその人が僕を否定的に拒まないことだけは、紛れもない事実なのだった。
だから僕は話す。取りあえずは、庭の話題。

「まあ土やら水やら屋内に持ちこんでる以上、無菌状態は無理ですよ。花粉症にこそ罹りませんが」
『あはは、そっかー。でもね、こっちは綿埃でくしゃみが止まらないことがあるよ』
「へえ……やっぱり生徒が居ない方が、汚くなるものですか。あれだけ広い校舎とあって」

記憶をたどって、改めて思い出してみる。かの有名な外国の斜塔になぞらえ表されることもある
と言う、主人たる生徒のいない旧校舎――軍艦塔。
外庭の緑もすっかり荒れ果て傾ききったそこを管理するのは、まさに今の話し相手、黒神真黒である。

そんな塔についての噂に似て、指先の電話回線は、緩やかに生え伸びる蔦のようにねじれていた。
それにしても、人は俯いて電話をしていても、相手の応答で反射的に顔をあげてしまうのは何故だろう。
僕だけだろうか。比べる相手がないから知らないが。
何はともかく、次に聞こえてきた声はまた、コードを見つめていた僕の両の目を前に向かせた。

「庭と言えば宗像くん、訊きたい事があってさ。今、ちょうど咲き頃の花はあるかい?
良かったら僕に幾許か譲ってくれないかな――家族に贈って驚かせたいんだ。全く僕事ではあるものの、
可愛い可愛い妹が久しぶりにこの兄を頼って訪ねてくれると言う、福音とも呼べる電話があったからねえ!」

「そうですね、花束にするくらいならすぐあります。まあ相も変わらぬ庭ごっこで、
あまり華やかな洋風の品には出来ないですけれど……僕が持って行くか、それとも直接ここで選り採りますか?」

淀みなく答える傍ら、ぼんやりと思う。学園内でだけ使える固定電話。
旧校舎に内線で電話をかけるのは僕だけだけれど、向こうの世界は僕と違って外線にも繋がっているらしい。
その途方もない広さを想像していると、やがて、ふむとため息をついて彼は言った。

「うん、勝手ながら花束は君にお願いするとしよう。今日か明日か、どうしようかなあ……」

ぶつぶつと呟いて、そのまま返事は要領を得ない。
どうも妹と会えることにばかり舞い上がって、肝心のサプライズの段取りは詳しく決めていなかった風だ。
別にこちらも急ぎで電話をかけたのではないから、先を急かさず黙って待つ。

実のところ、急ぎどころか、まともな用件もない。彼が十三組から姿を消した日に居場所を調べ上げて、
今日までずっと毎日、連絡を取り続けてきただけだ。それは僕が長い時間望んでいた、絵空事だった。
サンタさんは一年に一度しか来てくれないけれど、黒神真黒は毎日三百六十五日、僕と話してくれる。
どんなにささいな戯言だろうと、聞いてくれる。
ゆえに僕は知らなかった。こんな心の安らぎを、罰当たりにも疑うことを。

『……はてさて、毎日電話するなんて友達みたいな仲で、こんなこと訊くのも野暮なんだろうが』

絵空事は、絶対に疑わないから絵空事。唐突に電話の向こうから聞こえてきた言葉に、そしてすぐに言葉が
切られたその時、僕は疑ってしまった。ふと、あなたが笑顔のままに小首をかしげる動作が、見えた気がした。

『宗像くん、君はどうして毎日僕に電話をかけるんだい? 一年前のように直に話して教えるでもない、
まさに純度十割な雑談だ。それをこんなにも執着的に――っと、僕は全然迷惑じゃないんだけどね?
十三人とろくに話が合わなかったのは僕もそうだし。まあ一年もこうやって声しか聞かなかったら、
僕は君の人相を忘れてそうで、今更顔を合わせた所で君を認識して憶えているか怪しいものだけどさ。
君、このままだと、僕にすら忘れられちゃうよ?』

柔らかな物腰を崩さないままに、問い詰められる。僕の異常性を知っているかどうかはこの際関係ない。
彼の言葉遣いは、まさにそんな様子だった。僕が今彼に会いに行ったとして、殺したくなるのは間違いない。
だけど一年前は、殺さずにすんだのは、彼が僕を制御するだけの管理力を持っていたからだ。
『このまま、僕にすら忘れられてはいけない』。
異常性から目を背けても無駄だと、絵空事を疑えと。馴れあいは止めろと、言われている気がして。

「………こそ、」

こんなかたちで今更に、異常性を突きつけられたら。殺したいほどの衝動は、そのまま口をついて出る。
――たった一秒、魔が差した。

「お前こそ、どうして今更そんな野暮なことを?」

――とんと一転、間が空いた。

『……ああ、気の置けない同級生みたいな言葉遣いだねえ、宗像三年生。上出来だ。しかしこういうのを
フラグって言うのかな、こうも一年振りのイベントが大挙して来るとは、久しぶりに忙しくなりそうだ』

一瞬が過ぎた後の彼は、穏やかだったが。
間を置いて変わった呼び方と、聞き慣れたはずの含み笑いに、僕はとっさに返事が出来なかった。
知らず知らず握りしめた受話器が、かすかに汗ばんでいることに気が付いた。
あの庭と同じで、地下九階でありながら永続的に一定の環境を保っているはずのこの階層に居て、
ひどく気温が上がった感覚がする。今、この今、それこそ十三組生としての資質を測る編入試験みたいに、
自ら望んで話を振ったくせに。一年振りに口を滑らせて出た言葉が、こんな。

(“一年も声しか聞かなかったら、忘れてそうで”)

声しか聞かない彼でも僕の顔を覚えていないなら。僕は他の誰の記憶にあると、問うまでもない。
このままだと僕は、被害者のいない人殺しで終わる。

『……まあ、答えたくなければ無理強いはしないさ。
それに、そもそも君が今日電話をかけてきたことで、僕から電話をかける手間が省けたんだから。』

年端もゆかない子どもをあやすような、優しい声音は、ひと呼吸入れてから言葉を継いだ。

『僕は重大な用件を忘れていたようだよ、宗像くん。最後に告知すべきことが二つばかりあるんだが、
両極端なことに良い知らせと悪い知らせでね。僕はどっちから電撃発表すればいい?』

どうしよう――どうすればいい。難しくて答えられない。殺害方法のように、言葉は簡単には思いつかない。
あなたは、そんな理由で黙する僕とまったく関係ないところで喜々と語る。

『そうかいそうかい、じゃあ悪いけど、僕の都合で悪い方からさくっと済ませちゃおうか。多分明日ね、
そっちのフラスコ計画の研究施設に生徒会から手堅い刺客が、否、手強い視察がやって来るはずだ。
その面倒事と向き合うという課題を君に与えよう。』

「………」
『次は良い知らせ。君が僕に電話をかけるのは、多分今日で最後になるだろう。』
「………」
『明日電話に僕が出たとしても、その時すでに僕はこの世にいないだろう。』
「………。」

彼は自嘲気味に、何故か格好をつけて鼻で笑う。
陳腐をきわめた台詞に、ぎりぎりまで緊張しきっていた身体から、気休めほどに力が抜けた。
どうやら『僕の都合』との思わせぶりな前振りは、この冗談をオチに持って来たかったがためらしい。
いやいや最後あの世と交信しちゃってるじゃん、とかの突っ込みは電話機の脇にさて置いて。
僕は――言いくるめられる。友達ごっこは、どう足掻いたって終わりらしい。

笑えない僕にはかまわず、電話線の向こう側で、あなたはほのかに笑った。無論、自分で自分の
放った冗談が面白可笑しくなったのでもあるまい。それは例えば、(明日の僕が今日を回想したとして、
あえて自惚れた方に解釈して受け取るならば)弟子の門出を送る師匠みたいな感じだったと、思う。
あるいは、家族に花束を贈るような。

『じゃあね、宗像くん。一般的に通話を終える時はかけて来た方から切り上げるのが礼儀だとは聞くけれど、
生憎僕の主義とする三本柱は君も知っての通りなものだから。どうやら愛妹が来たようだ、
あの子とは何日か過ごすことになるだろうし、花は明日にでも取りに行くよ。
それではここらで――さようなら。またいつか、君の顔が見たいな。』

ふつ、と。電話はそこで切れた。
いつものことだった。それでも頭の中に残響するのは、つうつうと流れるあの無機質な音ではなかった。
(“またいつか”。)
また明日。もしも、庭のあるフロアの入り口の前に花束をひとつ置いておけば、そこを訪れた彼は黙って
それを持ち帰ることだろう。そうして僕も、明日以降電話をかけることはないだろう。
あなたから言われたことに今まで間違いはなかったから、これからも。
課題は明日だ。昨日と変わらない今日はともかく、誰とも会わずに殺さずに、殺意の代わりに水を撒く。

(…僕は。)
僕は、電話というものが好きだ。手入れされた庭はもっと大好きだ。
僕が管理し、整えた土壌や水分や光があって初めて、草は伸び樹は芽吹き、花は咲く。
そばに人があっては生きられない僕と違って、それらはもう僕なしでは生きられないだろう。
験体と管理人とか、人殺しと魔法使いとか、血肉と草花とか。それで友達なんて解釈、とてもじゃないが馬鹿らしくって。
自分すらも殺せない殺したがりが、誰かと寄り添いたいとかって、片腹痛くって。
――痛くて。

「……そろそろ、水遣りにでも行こうか」

誰かに電話でもかけなければ使い道のない声を、僕は無駄使いして、凶器と水桶と柄杓を手に取る。
――痛くて。苦し紛れに、胸のあたりを手で押さえる。花粉症にもかからないこんな場所にいるのに。
お医者さんにかかることも、出来ないのに。どうして、息をすることが苦しくて堪らない。

……それでも、さっきまで友人みたいだった彼は、
妹に贈るために花が必要だと言っていた。手間ひまかけて咲かせた花の、首を締め折りに行かなくちゃ。

「あー……空調が、乱れてるのかなあ。」

息の根を止める方法が勝手に思い浮かぶ頭を振って。僕は独り、独り、大きなため息をついた。