ホスピタラブルベッドフレンド

ここはいつから病室になったんだ、と、人吉は現在においてどうでもいいことを考えた。
ここと言うのは学園に籍を置く生徒なら誰でも多少なりと見知っていよう、日を追うごとに屋内花園と
化しつつある生徒会室である。もちろん屋内と言うからに花はすべて鉢植えのもので、
世間一般的に病人の見舞いに鉢植えを贈るべきでないとの暗黙の了解がある以上、この場所を病室とたとえる言は
ある意味不謹慎かもしれないのだが――そんな第三者視点の考察もまた、此処で人吉ではない方の
もう一人の青年が力なく臥せっていることに比べれば、よっぽどどうでもいいことである。

「……宗像先輩。いいすか、いっぺんタオル換えますよ、」

仰向いた上から気遣わしげにかけられる声を聞いて、きつく閉じられていたまぶたがかすかに開かれる。
今しがた先輩と呼ばれた彼は、声も無く弱り切って、かすれて不規則な吐息だけでしか反応を返せない。
傍目にも明らかに暑さのせいではない脂汗を自ら拭うことさえ出来ずに、ただその痩躯をソファに横たえている。
緩めた制服のネクタイも、ほどいた後ろ髪も、
寝かせた時に少しでも楽であるように人吉が施したものだが、まるで気休めでしかなさそうだ。

「………。」

唇を引き結んでそれを一瞥した人吉は、枕元、氷水を張った洗面器に浸しておいたタオルをすくいあげて固くしぼった。
それを広げてからまた丁寧に折りたたむと、汗で黒髪がはりつく額に出来る限りそっとあてがい、撫で拭う。
されるがままに、動かない。生身に触れる人吉の指先に一切抵抗を見せないのは、
友人関係あってか、それとも殺人衝動の喪失あってか。
あるいは、病まぬ痛みに骨の髄まで侵されている最中だから。答える声はどちらにもなく。

花のある病室。患者。特効薬。舞台と役者は整い過ぎた。
先日のフラスコ計画視察の戦利品であり、二重の意味での『不完全薬』、ノ―マライズ・リキッド。
宗像が誤ってそれを己が身体に注射してから、半刻が経とうとしていた。

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結論から有り体に言ってしまえば、人吉の迂闊な判断と出過ぎた行動が全ての元凶である。
あの地下研究施設の視察の道中、どさくさにまぎれて人吉はある画期的な薬剤を獲得した。ノ―マライズ・リキッド。
=異常殺しの特効薬。=普通化療法。殺人衝動さえ打ち消せる夢のような薬を手に入れてしまったのだ。

否、入手した時点ではまだ何も間違っていなかった。経緯と経路はさておき、それを得て脳裏に真っ先に
浮かんだのは他でもない宗像のことだった。宗像形。=無実の人殺し。=誠実な人好し。
人を殺さないがために形だけの殺意を騙り継いで生きてきた、二歳年上の先輩であり友達。

浮かんだのだが――その薬害効能をひと度知れば、甘い目論見だと思い知らされた。
下手をすれば命の危険が脅かされるほどの、痛み、と言う分かりやすい副作用。
容赦ない責め苦と痛覚の強制作動。仮にそれに耐えたとしても、効果の持続時間は長くもって一時間だと言う。
それはあまりにも『出来ていなくて』、薬と呼ぶことすら憚られる、異常に対する猛毒と言っても差し支えないものだ。
殺す衝動を抑える目的で本人を殺しかねない薬を投与するなんて本末転倒も甚だしいし、
異常かどうかを前提に据える前に、まかり間違っても人体にぶち込んで良い代物ではないだろう。

だから人吉は諦めて――諦めてなお、それを持ち帰った。人生で初めて手にする注射器に、
どこか場違いで不謹慎な感慨を覚えながらも、頭の隅では一途に薬の効果を信じていたのかもしれない。
実際にすぐに使わずとも、サンプルがあれば将来的に誰かに完成させてもらうことは出来るはずだと。
そうすれば、友達もきっと救われると。しかし。

この時点ではもう、それも確実に、手抜かりなく間違っていた。
ほんのもう一歩踏み込んで、踏み止まって思案してみれば、容易く想像出来たはず。
長く病んでいる人に何の前置きもなく、『特効薬』だと言ってそれを差し出すことがどういうことか。

『患者』にあたる彼が顔色も変えず注射器を自然に手にして――さながら友達同士で菓子の一包みでも
やり取りするような、そんな気軽さでもって人吉の手からすっと取り上げて――
制服の長袖をまくしあげて肌をさらし下腕に針先を突きたてるまで、彼は一瞬も躊躇しなかった。
あの生徒会長が実姉の前で寸分違わず同じことを演じたように。
止める暇どころか、副作用がどうのこうのと人吉が後付け説明する間もなく。

さて、結論から言ってしまったから、もう結果も言ってしまう。要するにこの件で人吉善吉は、
意図しなかったとは言え最悪の手段で友達を傷つけ、痛めつけ、病院送りにしてしまったのである。
 
 
結果、ベッド代わりにはいささか狭い生徒会室のソファに友達は臥せり、その傍らで人吉は膝を折り項垂れる。
注射を打って倒れたのが半刻前としたら、出来る限りの応急処置を済ませてからの待機時間も同じだけ
過ぎているのだが、跪いて痺れた脚や時間の都合その他諸々の事情は、すっかりとその思考から忘れ去られている。
一人のために占める領域が大きすぎて、どうでもいいことは隅に押しやられている。

実を言うと、人吉は早くに一言謝っていた。
が、一度頭を下げたその事実さえ軽薄に思えてくるほど動揺し、後悔していた。
効果が不完全だと分かっていたなら、薬など最初から持ち帰らなければ良かったのだ。
重症の副作用?刹那の特効力?挙げ句未完成でしたとあっては笑い話にもならない。
良かれと思って自分がしたことが、所詮、目の前に希望をちらつかせて相手が欲しがった瞬間に
手を引っ込めるような底意地の悪い真似でしかなかったと、痛いほど思い至って。
だから思い至った人吉は、今このように――痛む彼以上にも、苦しく痛そうな顔をしているのだった。

「……随分と辛気くさい顔だね、人吉くん。まるで祖父の名に賭けた名推理で
連続殺人の真犯人を言い当てたはいいものの、情状酌量でもお釣りの来る動機を人殺しに散々聞かされて、
挙げ句の果てには目の前で服毒自殺を図られた男子高校生みたいじゃないか」
「………。」

細かすぎて伝わる。掲載誌が違うとは突っ込まなかったし、とても笑えなかったが。
言って茶化した彼は、口許だけ、ほのかに笑った。

「………せんぱい、」

精神力だけで意識を保っているのか、それとも苦痛が過ぎて意識さえ飛ばせないか、
医者でもない人吉にはどうしたって判ぜられない。けれど、ようやっと絞り出した声で冗談めかす宗像を
目の前にして――息も絶え絶えに軽口を叩けるだけの理由を察せないほどには、鈍感でもない。
副作用であるところの痛みに悲鳴を上げることも、ましてのたうち回ることもしないでおれる、その理由。

我慢出来る理由は誰にもあったのだ。
奇しくもこれ以前に開発段階のノ―マライズ・リキッドの被験者ととなってしまった『患者』は二人いて、
それぞれが違う理由を痛みへの盾にしたことを、人吉は知っている。
生徒会長は、他人のためには決してくじけず折れない心でもって。魔法使いは、計画離脱の際に見た地獄を引き合いに出して。
ならば、殺したがりは。
そんな異常をずっと我慢してひた隠しにしてきたのに、今更、ちょっと痛いのを堪えられない訳が無いとでも――?

(……て言うか、ほんとに辛気臭い)

一方、患者サイド。正直この状況を歯がゆく思っている、宗像の思うあれこれ。
心痛疼痛激痛その他諸々を患い、ほとんど自由のきかない身体で、宗像は体勢にまかせて頭上を見上げる。
人吉が責任を感じていることはひしひしと伝わってきて、この部屋のお通夜みたいな空気も彼が全部作り
出しているのかと思うと、なるほど何事も全力投球な人間なんだなあと的外れにも感心せざるを得ない。
得ないのだが。

(この子、まさか僕が本気で効果を鵜呑みにして注射したと思ってるんだろうか……)
それは言わないから、聞こえない。気軽く注射を打てた理由に、彼はおそらく気付いていない。
薬の『都合のよさ』を見抜いても、腕が勝手に動いたとしか言いようがなく、咄嗟に止まれなかったのだ。
人生で初めて手にする注射器に、どこか場違いで不謹慎な感慨を覚えながらも、
頭の隅では一途に信じていたのかもしれない。
人吉が差し出してくれるものなら何でもいいやと、投げやりにではなく、信じていたのかも。

(……ただまあ、身体が動かせないのは困った。)
投げだした腕や脚は幾重にも縛られているように重く起き上がることもままならない。
薬の効き目はおよそ一時間、あと半分も意識を失えず過ごすくらいなら、いっそ気を晴らしてしまいたかった。

宗像は思索する。残された体力を最大限に使って、出来ることを取捨選択する。
そうしたらついに、かの生徒会長にならって、自分も人間の物真似をしてみようかと思いついたのだ。

「……人吉くーん。ここらでひとつ、僕に、頑張れって、言ってくれないかなあ?」

はす、はす、と。見てきたように、ほのかに笑う。
うつむいていた人吉が、がばと反射的に顔を上げる動きが可笑しくて。二言三言喋るだけで、
はすはすと喉奥から聞こえるへんな呼吸音がおかしくて。友達にも自分の笑みを真似て欲しくて。

深く息を吸っていったんきつく目を閉じ、再びこじ開けた。
発した言語はきちんと伝わっただろうかと案じていたら、真似られた側は、不意に目もとをゆがませる。
それから人吉がおそるおそる自分の手を取るのを、宗像は寝かせられた視点から眺望する。
しかし一度触れあってしまえば、力の入らない指先はすぐに手繰り寄せられ、一緒にかたく握られてしまった。

「……先輩、宗像先輩、宗像先輩、っ」

――手を握られる。
それはさっきまでのように気を遣った穏やかなやり方ではなく、ひどく急いて、遠慮なく力を込められる。
されて、宗像は少なからず困惑する。尚も歯がゆい。たくさんの言葉が口をついて溢れそうで、
その中から選り好みしている余裕もない。返事をしたくて返事をしたくて出来なくて、
そうやって自分の言葉も持て余して、他人の言葉まで横取りしたいようなのだ。

圧倒的な不安が立ちはだかる。堪らず視線をさ迷わせていたら、
やがて人吉の瞳の奥に、自分自身の姿を宗像は探しあてた。次は人吉が、声を絞り出す番。

「頑張って、ください。俺がいます。先輩のそばにいます。……あんたがいたいのは、俺もいたいですから」

――手を繋いだ。
朦朧とかすむ視界で、繋がれた手が二人ぶんの体温を帯びている事実は、底なしのやすらぎをもたらした。
同時に『殺したいと思わない』、そんな平和で普遍の感覚を手中におさめた宗像はふと思う。

注射一本で叶えてしまった夢は唐突過ぎて、嬉しいとも幸福だとも、いまいち実感できていない。
どころかその普通らしさも、薬が脳に働きかけたが故の一時の生理反応に過ぎないと、
頭ではよく理解しているつもりが――初めてその感覚を共有する場に人吉が居ると言うことだけ、嬉しくて堪らない。
次に目が覚めたら振り出しに戻っていると分かっていても、笑ってサイコロを振るのだろうと仮想する。

「……ああ、頑張るよ。頑張れる。いたくても、きみが友達でいてくれるんなら、ね」

――手を解いて。
心は限界まで耐え抜いて、とうとう身体がもう駄目だと苦笑いして、意識を手放した。次に目が覚めたら
振り出しに戻ると分かっていたけれど、振り出す場所が生徒会室であると知っているから、死ぬ気はしない。
痛くて痛い荒療治だとしても、すぐそばにはお見舞いの花の鉢植えが山ほどあって、友達が居て、
甲斐甲斐しく看病してくれるのだ。
無意識に沈みかけている宗像にとっては、それ以上の幸せなど、世界の他のどの場所にあるとも思い描けない。
それ以上の幸せ。知ってしまいたくはない、と直感する。
(僕と関係ないところで存在して欲しい。)それは人吉と違って。
 
 
――そんな風に、
痛いだけで面白くもない思い出の冒頭から結末までを例えるなら、真っ白い病室から望む白昼夢。
本当はしたいことを、心底したくなかった。したくなくて嘘をついたら、いつの間に病院にいた。
退院の後で、友達は注射器をプレゼントしてくれた。完治こそしなかったけれど。
それでも、ちょっとだけ痛い思いをして注射を我慢したことを、誰かさんにほめて欲しいなんて
子どもっぽいだろうかと呟いて笑ったら、医者ではない友達も一緒に笑ってくれた。

「先輩をほめるなんて、俺にはまだ早いです。」

(寝台を降りた病人に向けて。)(舞台を降りた役者ははにかむ。)
それは辛気くさいと言うか、幸気くさい顔だったけれど、ちっとも嘘くさくはなかった。