「ハグしてくれ、人吉くん。」
至極真面目くさった顔で、独り言なみの声量で、正面の彼は言った。声高に鍛錬にいそしむ部活生の
騒がしさも遠のく下校時、二人きりの生徒会室にて、宗像先輩の声はとても澄み渡って耳に届いた。
突拍子もないその言葉に俺がじょうろを取り落とした瞬間、目の前に立つ宗像先輩が音もなく動く。
暗器でも扱うかのごとき手さばきで取り出したるは、柄の長い二本のモップだ。俺がああと間抜けな声を
上げる間にも、彼はそれらを二刀流に模してかまえ、床に対し絶妙な角度で滑らせたと思ったら、その後は
もうこぼれた水の一滴さえも残っていない。乾いたぴかぴかの床を見て俺は『まるで血痕を掃除するのに
慣れている手つきだなあ!』――なんて、思うも。何はさておき、ここに花の水やりに来たはずが
部屋を掃除する羽目になっている先輩である。
「………。」
いかにも誤解を招きそうな画だった。下級生のぶちまけた水を黙々と掃除する三年生、
ことの寸前の会話までを含めれば、一見したところまともな人間関係のこじれもはなはだしい。
これ以上よじれぬ内に、俺から話の筋を戻そうか。
「あの、先輩…今の御言葉は、如何様な御本意で」
「『こんにちは宗像先輩、今日も来てくれたんすか!いくら先輩との仲とはいえ生徒会の花の管理にこうも
お力添え頂いて何も返さないのは庶務としての怠慢、お礼出来ることがあれば遠慮なく仰って下さいよ!』
――と、言い出したのはきみじゃないか。いわゆるハグという行為は友達なら日常的にするもの
だと聞くし、この機会にやってみたい。だから頼む」
……うん、ええと。だから殺すみたいに言われても。
しかも正しいか正しくないか微妙な知識だし。先輩は悲しい顔も健気な顔もしないが、目だけそらさない。
「………あー、っと」
まあ、彼がここに居るのも、二人会話しているのも、全ては『友達だから』。七月半ばの思い出深い生徒会
業務において、異常尽くしのあのふざけた計画も、あながち嫌なことずくめではなかったという訳だ。
俺達が友達になった視察から、数日後のこと。宗像先輩は、ある日普通に刀を帯びず学園に登校して
きて、普通にノックの音とともに俺の前にもう一度現れたのだった。計画の打ち切りを案件解決として、
生徒会室に並べた花のひとつにこれを提供したい、とまだ背の低い向日葵の鉢植えを大事そうに携えて。
『目安箱の案件を数えるごとに花を飾っていると評判になっているからね。差し当たって黒神さん、
これから僕もこの花の世話をしに来ようと思うけど……それとも、ここは部外者の立ち入り禁止かい?』
『ふむ、この箱庭学園に籍を置く全校生徒全員、その一人として部外者などおらぬ!
宗像三年生、24時間365日、いつでも好きな時に来るがよい!』
開いた口のふさがらない庶務をよそに、素直に喜ぶ生徒会長である(書記と会計ももれなく、同意だ)。
すさまじいまでの心境の変化に文字通り華を添えた向日葵は、本来誰かに贈るはずだったそうなのだが。
『彼』は受け取りに来なかったと、ぼやいていた。
……とまあ、そんなこんながすったもんだで。ここいらで当初の問題を思い出して頂こう、
俺が宗像先輩の言うことを何でも聞くと言ったら、じゃあハグだ、と冒頭に至る次第だ。口調はあまりに
真剣で、冗談を口ずさむ性質でもないと知っている。それこそ『された事はあってもした事はない』―――
めだかちゃんの言の逆バージョンだ。された事なら数知れず、ある時は彼女の真骨頂に数えるデレの
一端であったり、またある時は危機一髪で細腕の中に抱きすくめられたまま横っ跳びなどしたものだが。
ありなのか。人生で初めて、かつ家族以外に積極的に行うハグが二つ年上の男の先輩とかって。
いや、女の先輩だったとしても、よもやあるまいし。無い無い。めだかちゃん以外は……の、はずだよなあ?
「………。」
彼は惜しむ時間などないと言わんばかりに、ただ、返答を待ってくれている。俺が断ることなんか、
ちっとも予想していないみたいに。おかしなことを言ってしまったかなんて、全然疑ってないみたいに。
(………。)
あるいは、知らないだけなのだろうか。『友達』だって、知ったばかりなのに。
『友達』の、それ以上さえ、この世にはあることを。たとえば俺が不知火に対して使う好きと、
めだかちゃんに対して思うそれ。自然に触れあうからこそ友達なのだという一般論と、
友達だからお願いして触れあおうと言う先輩の逆説。
――『だから頼む』。待っている。友達の出現を期待して、待ちに待って。
生まれた時から待たされているようなもので。
「……俺には、好きなやつがいます」
「そう。知らなかった。きみが言わないから」
「……で、先輩は友達です」
「うん。知ってる。きみが言ってくれたから」
「だからそいつには――今だけ内緒」
実に単純明快。二本の腕で事足りる頼みもきけないで、何が友達だ。
歩み寄りは、かつて先輩によってお膳立てされたあの形ばかりの殺し合いみたいに、攻撃圏内に踏みこんで
傷を付けるためのものではない。自らの意思で手を伸べる。ひと回り大きな背中に、少しだけ低い位置から
両腕を回す。当然俺よりも宗像先輩の方が身長が高いから、それははた目に見れば俺が背伸びをして
しがみつくような、ひどく不格好な動作に見えたことだろう。
はぐ、
抱き締める、まではいかない。それでも制服の生地をへだてて仄か伝わる温度に、不意に指先が強張った。
――知っている。こんな温もりに、冷えに、覚えがある。かつて直に手で触れたことがあるから、
弾き飛ばしたことがあるから、覚えている。その正体は基礎体温の数値が低いなどと言う通常な理由ではなく
――今なお薄布の下に潜む、冷ややかで異常な彼の意志。研ぎ澄まされ仕込まれた刃物の、つめたさを。
『さて、晴れて宗像くんのお友達となった善吉くん。
元十三組生としてお節介にも僕から蛇足しておくけどさ、彼を含む十三人の異常性は、
先天性か後天性かにかかわらず、押し並べて医学でどうこう出来る範疇にはないんだよ。』
地下二階から三階への道すがら。愛する妹からわざと離れて歩きながら、魔法使いはささやいたのだ。
『病気じゃない、故障じゃない。だから異常ってのは“完治しない”。彼が君と友達になったからと言って
たちどころに殺人衝動が治癒ることはないのさ――妹が君を好いても、どこも治癒らないのと同じで』
半分は俺に、もう半分は自分に言い聞かせる風に。続く言葉は、互いの身体が離れる時の些細な喪失感に
かき消されて、思い出し損ねてしまった。
もう空っぽになった両腕を見下ろす宗像先輩は、しきりに拳をぐーの形に握ったり、ぱーに開いたりする。
雪をつかんで確かめる子どもにも似た幼い仕草を目の当たりにして、けれど俺は笑うことはしなかった。
やがて先輩は、うつむきかけた姿勢のまま呟く。
「黒神さんは、君によくこんな事をするのかい?」
……『好きなやつ』。当てずっぽうか、はたまた勘が良過ぎるのか。
「よくっつうか……日常茶飯事ではねーですけど。嫌ってほど数はこなして慣れてますから」
「いやってほど、」
俺の言葉を興味深げにくり返して、先輩はふと息をつく。
そしてすぐ思い立ったように手もとから顔をあげて、俺と目をあわせて言った。
「何て言うか、彼女は、頼まれてもない事をしてくれるひとなのかな。」
「……あんたも阿久根先輩と同じ意見っすか」
“頼まれてもないことを執行してこその生徒会”と。当の会長本人によっては明言も提言もされていない、
いささか過剰宣伝じみた文言ではあるが、それはやはりめだかちゃんの秘めた指針であるのかもしれ
ないと俺は思う。少なくとも、二言三言ばかり言葉を交わしただけの宗像先輩にそうと評されるほどには、
考えは周囲に影響をもたらしていると言うことだ。ひとり小さく頷いて、彼は続ける。
「彼女には感謝しているんだ。だから花を受け取ってもらえて良かったし――それに、人吉くん。
僕はこれでまた少しきみと仲良くなれた気がするよ。きみはとても暖かいんだね。」
「……かッ、先輩ほどでもねえっすよ。」
皮肉でもお世辞でもなかった。ただ、二人握手した思い出を懐かしんだだけ。
何となく気恥ずかしくなり俺は苦笑いを返すけれど、先輩は意味をよく分かっていないようで小首を傾げる。
表情の変化の乏しさは相も変わらずだが、こうして感情を示す小さな疑問の仕草がそこに添えられると、
すっかり気を抜いていた俺は知らず動揺を誘われた。初めましての第一印象から想像もつかない穏やかな言葉は、
ついでにあの問いをも氷解させ、ひとつの答えを弾き出す。
『君はそれでも彼と友達でいられるかい?』
彼が異常であれど。俺が普通であれど。殺したくてたまらなくても、まだ死にたくなくても。
しかし俺が友達でいられるかなんて、図々しい。俺を生かそうとする気持ちがより強くある、そのぶん
ひとより友達思いな先輩を、疑うなどと出来ようか。宗像先輩は、目をそらさないで言ってくれるのに。
「きみは――きみさえ良かったら。いつか今度は、僕から、してみたいな。させてよ。」
「………ん。悪くない。良いすよ。ところで先輩、
今日午前に園芸部から投書がありまして。中庭の花壇の手入れでちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「んん。お礼出来ることがあれば何でも言ってくれ」
差し出した投書をまじまじと見つめる彼の横顔を、傾く夕日があざやかに照らし出す。
長い地下生活のせいで、人工でない外部からの光刺激に身体が慣れていないのか、日がな一日眩しそうに
すがめる目もとは今日も変わらない。けれどそれは彼にとって、必ずしも不都合なだけではないだろう。
つまりは、先輩にとってこの世界が、前に居た所よりも明るむ場所だということ。
光があたって、もっと世界が見通せる。
そこにいるのはやはり、緑が好きでちょっとばかり世間ずれしている、ただの俺の友達だった。