贄波、と呼んだ声は血反吐に混じって途切れた。
なんだか結果的に、笑み、と人間の表情の一形態を口にしてしまっていた。
ずっと世を拗ねたように気取る彼女に、笑ってみたらと求めるみたいに。
ただでさえ荒廃しきっていた病院跡、いっそ更地になりかねない勢いで破壊されていくそこで、
にこりともせず伝説の英雄に立ち向かう彼女を見たのは――完膚なきまでに叩きのめされた後だった。
折れて砕けた四肢とずたずたの胴体で地に這いつくばり、どうにか渾身の力を振り絞って真っすぐ頭を上げた先、
ようやく遠目に見える後ろ姿に気が遠くなると同時に毒づく。
(こんな惨状になった以上、部外者のあいつだけでも早く逃げればいいのに、まったく何をしていやがるんだか。)
どうやら贄波に助けて貰おうという発想が生まれない辺り、ちっとも頭は働いていないらしい。
どころか今の俺は、仲間の、幼馴染の心配すら出来ていないのだ。
まさかスタイルを習得していないから、首を曲げて周囲を見回す余裕もないのかも。
あくまで直線的に、ひたむきに上を向いて。
もちろんそれは、直線ではあれど決して“前向き”じゃなく。
現実から目を背けずにがんばっている人間を応援するのは校風だが、
今や誰かを見守るとか見届けるとか、そんな「助かる」前提の話じゃないのは明白だった。
(頭に血が巡り、血の繋がりで、ふとお母さんの顔が浮かんだ。)
きっとこれは――見納めだ。あきらめではなく、本能で死を悟る。
殴打の音だけが無情に響いて、助けを呼ぶコールボタンも見当たらない。
真白い服に身を包んだ何処かのナースも、怪我人見放し即死と診断、ガールズトーク。
聴覚だけが研ぎ澄まされているのは、良くも悪くも目にゴミが入ったせいだ……ほら、
「貴様も仲間か」と苛立って問い詰める、言彦の野太い声がそこに割って入っても、
物怖じしない贄波の返事まで声が良く通って聞こえるし。
「いやあそれが、仲間でも友達でもないんだなあ。私はあんたと同じ守るもののない、なんとなく生きてるだけの奴だよ。」
(ああ、これ以上怒らせてくれるな、贄波)
何が狙いだと逆上する咆哮はそれこそ強烈な空気の振動で、この停まりかけた心臓をも
動かしそうなくらいなのに……と、皮肉なため息を吐きかけた時。
赤い制服のスカートの裾を翻し、上半身だけ身体をねじって振り向くのが見えた。
まばらに流した前髪のすき間から、あきれた形の目と目があった。
「何が狙いも何も、受け狙い。……てゆーかお前にはもう分かるだろう、人吉?
守るものはなくともなんとなく、私は師匠の――宗像形の影武者として、お前の友達としてここにいるんだから」
心臓が停まったかと思った。
彼女は気だるげに爆弾発言を放るや否や、再びぷいと正面を向いてしまい。
言彦の怒りの凄みが増してひしひしと伝わってきた。
混乱、する。
いくらなんでもあり得ない。だって俺はこいつと漆黒宴で初めて顔を合わせ、力ずくで負かし、
その後なんやかやで学園に連れ添って帰り、なんやかやでここまで同行しただけの、赤の他人……いや。
(もう当たり前に傍にいて、友達のように言葉を交わしてきたのは、他ならぬ俺だろう。
起きたらいた奴だとか、お前が語るなだとか、今まで散々こいつをよそ者扱いしておきながら、
俺も心の底では薄々思い当っていたんじゃないか?)
なかなか戦闘に持ち込めない空気に痺れを切らし、ついに言彦が怒号を飛ばす。
だが、それを待ってましたと言わんばかり、贄波は肩の力を抜いて腕を広げた。
「死地点抜刀、は今日はなしね。まったく、人として駄目になりたくなくて
強すぎる『逆接』を手加減しようとしたら、腕に刀を刺せばだなんて。師匠ってば本当私に似てる」
「……、……、」
ほんのひと呼吸さえ躊躇われる瓦礫のすき間では、立ち込めていた土煙が徐々に舞い落ち、濁っていた視界がわずか晴れていく。
むき出しになった鉄骨の赤い色は血管に似て、俺は血で血を洗った二度の戦いを思い浮かべる。
(『いざ尋常に生死』とのたまう、命を賭したその言葉も。『だからこそ』が意味を成す「逆接使い」も。
制服の中に仕込んだ多刀の由縁も、陰険道・無限倍、なんて名も。)
(殺意をふりまき、生死を語る言葉も。殺したくないだからこそ、『だから殺す』と口ずさむのも。
制服の中に大量の凶器を隠し持って、人間の限界を体現してみせるのも。)
影武者。表裏一体の代役。裏切らずに表立つ。
後ろからでも見て分かる、刀を構える姿はあの人、あの日とぴたりと重なった。
「陰険道・無限倍、虚々式もとい生々式――なんちゃって!
師匠にゃお前に同行出来ない理由があって、漆黒宴から弟子の私にお守りを頼んだんだってさ。
あ、空母で暴れたのはごめんね。師匠の友達に嫉妬して、勝手に喧嘩売っちゃった」
ずっと見えていた正解から、目をそらしてここまで来た。
いつかのように傷ついていてもおぶってはくれない、
それどころか去っていく方へ、こちらに背を向けて立つ贄波から目が離せなかった。
「ねえ人吉。お前に噛まれたこと、別に忘れてないよ。
お前が将来借金で首が回らなくなった時は、プラチナ鉱山を持ってる私が最後にお金を貸してあげるし。
お前の進む道に誰かが待ち伏せしてたら教えるし。困った時には、助けるし。
『言彦くん対策』も『大嘘憑き劣化版』も『鴎システム』も知ってて当たり前なんだって、
私は――『僕』は、箱庭学園でそれを見聞きしたんだから。
……ぎりぎりまで仲間を信じて任せてやれとも言われたけど、遅れてごめんね。
限界みたいだから、ここは自称友達の私が引き受ける」
贄波、宗像先輩、と続けて叫んだつもりだったけれど。
裂けかけた喉から声は上手く出ず、いつしか強制的に眠りに落ちていた。
次に目が覚める時、たとえば全てに片が付いていて、皆で無事に学園に戻れているとして……
その場にも彼女の姿があればきっと安心するだろう、仮に不知火のように任を解かれたからって
消えても、俺は同じように助けに行くのだろうと、薄れゆく意識の中で確信していた。