veryblue-blind-end

「人吉、それ、見慣れない鉢だね。何の花なの?」

何気なく問うた喜界島に、俺はすぐには答えられなかった。
指さしているのは、色鮮やかな初夏の植物に囲まれた生徒会室で、一番の新入りである白い花。

一応は心当たりを探るものの、結局知らないと口を濁す。お互いどこか残念な顔をした。残念。
日を追うごとに打ち解け始めた喜界島が、せっかく自分に訊ねてくれたと言うのに、期待にそえず。
しかし、いくらこの花たちの世話が俺の仕事だとて、日々じょうろを傾けているくらいでは
劇的に花に明るくはなれるはずもない。キレイという感覚しか分からないで、
それ以上のことを知ろうと思わないのだから、当然とすれば当然なのだが。

完全かつ万全なあの生徒会長なら知っているだろうけれど、あいにく彼女はこの部屋に居ない。
理事長直々に呼び出されていて、不在なのだ。『貴様たち三人には、安心して留守を任せる。
私はやり過ぎぬよう気を付けるとするよ』とか、にこりと笑って。

「ああ、それはブルーベリーじゃないかな。喜界島さん」

――とか、にこりと笑って。右隣の席の阿久根先輩は、風紀委員会との一件の
報告を原稿用紙に書き連ねていた、その作業の手を止め言った。少しだけ間の空いた返答と会話の
つながりに、一拍置いて気が付く。ブルーベリー。何の花かと訊ねられた見慣れぬ鉢植えのことらしい。
見やった鉢はいまだ何一つ実りなく、蒼々とした葉をひかえめに茂らせるのみで、どこか肩身が狭そうだ。
それにしても、めだかちゃんのお花畑計画に果実の樹木までも含まれていたとは。目から鱗。

「阿久根先輩、見ただけで分かるんですか?」
「いや、俺も特別に詳しくはないよ。たまたま知っていたと言うだけで」
「あたしは初めて見ました。だったら、いずれ実が生ったら食べられるんでしょうか……?」

鉢植えの目の前にちょこんとしゃがみ込み、喜界島は小首をかしげる。早くも観賞する方から食べる方へと
注目したその言葉に、俺はちょっと笑ってしまった。と、眼鏡のレンズ越しにきろりとこちらを睨まれる。
ほのかに紅潮する、青葉と正反対の頬。ふむ、とうなずいて阿久根先輩は続けた。

「否や、ちゃんと実が生るかどうかは分からないな。たしかに七月が旬ではあるが、室内だし丈も小さい」
「へえ。じゃあ阿久根先輩が卒業するまでには立派に育てばいいっすね、喜界島とめだかちゃんと俺はその後も一年間一緒ですから」
「……おいおい人吉クン、なぜ棒読みなんだい。あたかも俺を目の敵にした物言いじゃないか」
「別に深い意味は……不快な意味ならありますけど」
「表に出ろ」
「こら、仲良くしないと二人とも売り飛ばしますよ」
「すいませんでした。」
「すいませんでした。」
「それでよいのだ。……って、黒神さんなら言うのかな?」

とか、にこりと笑って。居ない彼女の言葉を真似て、喜界島は、なかば照れ隠しのようにはにかんだ。
小さな葉の集まりをなでる指先も唇も、眼も、子どもをほめる時のようにやさしく弧を描く。

「実るといいよね。黒神さんもきっと喜ぶと思う。それに、ブルーベリーって疲れ目に効くんじゃなかったっけ」
「……あー、まぁ、デスクワークの量も半端じゃねえからな。」

嬉しそうな彼女をよそに俺は、本人は今頃くしゃみでもしているかもしれない、ぼんやりとそんなことを
考えた。それから、めだかちゃんが此処に居たら何と答えていたか―――理事長と何をそんなに話し込む
ことがあるのか、早く帰ってくれば良いのにな、なんて、他愛もないことを気にしていた。
気にしながら、彼女がこの部屋に此処に居ないことだけ、
どこか不自然で、不完全に感じて、居心地が悪かったのを覚えていて―――

そりゃあそうだ。当たり前だった。
世の中にも、俺の目の中にも、ずっと長い間めだかちゃんは居たのだから。

だから今日―――彼女の姿が見えないことに、たぶん最初に気が付いたのだと思う。
視界のどこにも映らなくて、おかしいなとは思った。どんなに目を凝らしても、
どこまでも深いあの藍色の髪を、目印を見つけられなくて、俺はいっそ真面目に目を見開いてみた。なにせ
上空からしか光の届かない穴の奥の底で戦っているのだ、薄暗いのは当たり前だし、世界は狭くて当然だ。
だからこんなのはきっと単なる誤解で、聞き間違いで、見間違いであって欲しかったのに。
 
 
『きみの視力を「なかったことにした」。』

――とか。彼もまたにこりと笑っているかは、見えないけれど。
間もなく俺は、俺が四感でしか世界を捉えられなくなっている事実を目の当たりにした。
おぞましい声も必死な叱咤も、汗と血の混じったかすかなしょっぱさも、
握りしめたからっぽの拳の体温の過熱も、足元にひしめく爬虫類の生臭さも、

(そのどれも分かるのに、たったあと一つ、肉眼の感覚だけがあまりに現実味に欠けていた。)
……見えない。死人を視認出来ないのは普通で、死角を視覚出来ないのも普通で、
無自覚に無視覚にされることは、絶対に異常だ。

同じ学園の生徒。今まで俺と友達になってくれた友達。俺を鍛えてくれた名瀬先輩。
逃げることをすすめてくれた古賀先輩。凶化合宿に励む阿久根先輩と喜界島。
Tシャツを仕立ててくれたお母さん。幼馴染。誰も、まもれない。目守れない。見守れない。

(……憂鬱だ、)
思考を藍色が染めあげる。
すっかり機能を成さなくなってしまった瞳に、申し訳ない気持ちさえ込み上げてくる。
お母さんが与えてくれたものを損なってしまったことが、恥ずかしくて仕方ない。

……決定的に映像情報が欠けた頭で、いつか名前を呼べなかった、あの小さな白い花が
脳裏をよぎる。結局、あの鉢植えが実を付けるのにも間に合えなかった。阿久根先輩が最初に卒業して
いなくなると軽口を叩いた自分が、こうして真っ先に、お先真っ暗に脱落だ。

弱い。弱々しい。弱っちい。この一週間かけて頑張って忘れて来たことを、
こうして眼前に突きつけられてしまえば。なるほど負完全な彼の言う通りだ、認めてしまえば、
そこから再び目をそらすことは難しい。戦挙の結末さえ見逃すことになって、暗中模索とはこのことか。

「……。」

憂鬱なエンディング。
押し寄せる後悔と未練に唇を噛みしめる。見えないことは、この期に及んでどうでもよくなる。
心残りがあるとすれば、そこまで鍛えてもらってこんな形でしか結果を残せないのが、悔しいのだ。
悔しくて駄々をこねる。
見えない人に今わの際に、言いたい放題八つ当たり。白々しく平気に告げるから告白だと、定義された。

「――好きだぜ、めだかちゃん。」

恋は盲目だなどと、古びた言い回しは今更信じない。だって俺には初っ端から、目深にかぶったフードの
下から、好きな人の姿が見えていた。そして今も、藍の言葉を投げかけた向こう側に見えると、信じた。
藍より青く四角く切り取られた箱の空を最後に目に焼き付けて、今度こそ名前を呼ぶ。最善を尽くした
俺はこんな最後が悔しくて、手加減も足加減もせず、蹴りをつけるために全身全霊で地団駄を踏んでいた。