「まさか布が余るとは」
ちょうど最後のひと針を通し終えた時、私はその失敗に気が付いた。事の始まりは、戦挙に出馬する息子のために、
応援を込めてTシャツを縫おうと思い立ったことだ。親子共にスケジュールが夏休みに入り、かつ
子が不在の一週間だからこそ、出来るだけ以前通りに家事をこなし、その合間を縫って縫製に励んでいた。
あの子は怖気づいて逃げるかもしれないし、逃げないかもしれない。ともあれ庶務戦には必ず間に合うよう
にと、特に急ぎも休みもせず、仕立て始めて五日目の晩、それは果たして完成した。完成した、はずが。
「なんでこんなに、布が余っちゃうかなあ?」
暗い自室で一人、首をかしげる。完成したTシャツとまったく別に、布がかなり余ってしまった。
作業を進める手元を見守る卓上灯は、傍の置き時計の文字盤を気だるく照らす。そろそろ零時を回るころ。
頬をつねっても景色が変わらぬあたり、作業中に疲れて寝ぼけたのでもないらしい。
昔ならこんなことは絶対になかったと、言い切れる。だって、どう考えてもおかしい。
寸法はきちんと測って型紙を取ったし(出発前に、サイズだけは入念に確かめさせてもらった)、
工程も途中で飽きるほどいちからなぞって見直したし、実際出来上がった一着にも、パーツはすべて足りている。
まして格闘技ではない方の裁縫の腕がおとろえるほど、久しぶりの作業だったとも考えにくい。
失敗は成功の母とは言うけれど、母の失敗は成功になるじゃなし。それともやはり、こんなありえない
失敗をしてしまうのは、状況が状況だからだろうか。私の心が、動揺を抑え切れていないせいなのか。
しん、と静まり返った自宅。真夜中の静けさは、とかく余計な方向にばかり思考の枝葉を育たせる。
生徒会戦挙の庶務戦に向けては、もちろん役職のクラスアップによる不戦敗がベストだと思っていた
ものの、本人が真っ向から受けて立つと言った以上、私が一対一で戦い方を指導するつもりだった。
かつてサバットの技術を基礎から叩き込んだように短期集中で――
出来るなら『患者だった彼女』を無傷で降参させる戦法を、授ける決心がすでにあったのだ。
もっともそんな鋭い決心は、言葉として吐き出す前に、
喉の奥に、お腹の底に飲み込んでしまったのだけれど。含んだ針でなくて良かった、うそぶいて。
「お母さん、俺、何処に行くとは言わねえけど、一週間家に帰らねえから。」
黄土の前髪をかきあげて、まっすぐに。
お腹を蹴っとばされたような衝撃だった。十五年前の、お腹の中に居た頃の痛みをなつかしむ。
お母さんに無断外泊なんて不良い子だよねえ、とすがるように笑っても、真剣な眼差しは揺るがない。
「俺の仕事のために、ちょっと修行してくるから。
旅行みたいなもんだ。どうしても不安なら、これを俺だと思って―――だから心配すんな。」
そう言って渡されたのは携帯電話だった。台詞はなんだか格好良いことを言っている風なのに、
いかんせん使い方が残念すぎる。むしろ唯一の連絡手段を置いていかれて、
余計に不安を煽られるではないか。いったい親をなんだと思っているのだろう。
私が同じ台詞を吐いて出て行ったとしたら、あなたはこれからどうするの?
――とか。力いっぱい両手を振って初日の分だけお弁当を手渡して、閉めた玄関扉に鍵はかけずに、ぼやいてみた。
好きなように産んだから、好きなようにさせてきた。
ゆえに、世話をする、育児をすると言う表現は、未だにあまりしっくりこない。
ただ、自分の心臓に手足が生えて、服を着て、別の心を持ってそこを歩いているように感じるだけだ。
好きなように、嫌うように。どんな酷いことをしても、もしかしたら許してしまうかもしれないように。
……案の定、育児論になってしまった。
真夜中だからだ。余計な妄想。心療外科医の名が泣く。歪んだレコードさながらに、集中力が音飛びする。
つまりは、『旅行』中に私が食事を一人分多めに作ってしまった回数が問題だった。
または、食卓の決まった席に置いてある、沈黙したままの携帯電話を眺めては、
時おり襲いくる頭をかきむしるようなたまらなさの程度の話。
親馬鹿だと分かっていても。本当に、本当に、黙って送り出して良かったのだろうか。
「あーあ、切ったり縫ったりは特技だったはずなのにな。最近じゃ善吉くんも慣れちゃって、ほめてくれなくなったしい」
あまった布切れに顔をうずめて、半ばやけっぱちにばふばふとはたく。どうせ、お風呂上がりに始めた
作業だから、お化粧の粉が移る心配もない。それに縫い上がっても一度洗濯するし。かくして空っぽの
腕の中には、一人前の服になれなかったただの布が、ぽつんと寂しく取り残される――。
「……ありゃ、」
眠気が飛んだ。そこまで度の強くない老眼鏡を押し上げて、目を軽く瞠り、余り布の布面積を目測する。
切り取りかけて途中で止めた線のたくさんあるそれは、うまく隙間を縫えば、
ちょうどあと一枚Tシャツをしつらえられそうだった。おそろいのものが、きっと出来あがるだろう。
(そう言えば、最近どっかの三年生と大喧嘩して、仲直りして、仲良くなったんだっけ。)
おまけに最愛の親友は、敵方に回ったとも生徒総会で耳にした。私に何が出来るだろう。
応援できるだろうか。こんな頼りない細腕でひるむ背中を後押しして、気付いてもらえるだろうか。
一週間のその前日でも良い、黙ってでも一度は家に帰ってくれたら、完成した一枚には気付くと思う。
そうしてこちらの一枚は、子ども同士の仲直りの後始末にもならぬ、単純なおせっかいに使うとして。
「善し。」
じゃきん、と無意識に針と糸を構えた両手を見て、今夜は徹夜になるに違いないと、私は確信した。
宗像はその朝、入院し始めてからの日々で、最も早く目が覚めていた。言いようのない、微妙な違和感を察したのだ。
滞在日数はまだ短いとは言え、なじんだ病室の空気の中に、ふっと差異を感じる。
違和感。そうだ、自分しかいないはずの無機質な個室に、かすかに他人の気配が残されている。
辺りを注意深く見渡すと、普段からたたんで積んである衣類の頂上に、見覚えのない白色がある。
さらに視線を動かした先では、鍵をかけたはずの引き戸がほんの少し開いている。
意を決してベッドから降りた。このような場所でもピッキング犯罪は起こせるのだろうか。
真面目に考えて、着替えを入れた三段ボックスに歩み寄り、一番上に重ねられたそれを、慎重につまみあげた。
「………え、」
一見すると、無地のTシャツ。しかしその両肩をつまんで広げてみると、胸からお腹にかけて
『一致団結! 絶対勝利!! 生徒会執行部』との文句が、でかでかと刺繍されている。
意表を突かれて思わずため息をつくと同時に、折りめの間から、メモが床にまい落ちた。
そこには、寝起きのようにかすれた丸文字が走り書きされている。
『良かったら使って』
そこでようやく、宗像は息を止めてみた。秒針の音。窓の外の葉擦れの音。あくびが込み上げる。
開け放したカーテンは束にまとめているし、部屋のどこにも、人が隠れられるような場所はない。
いったい誰が、と考えかけて、宗像は唐突にそれに気が付いた。
「……人吉くん――じゃないけど、似てる?」
なんとなく。残り香や筆跡や、そういったはっきりした根拠は、残念ながらない。
けれど直感的に、とてもかすかに、そこに同質のものを感じ取る。
それを世の中では母親のセンスと呼ぶのだと、宗像の知らないところで会話が交わされるのを、
偶然聞き及ぶ機会にはついに間に合えなかったのだけれど。手のひらの中の、普通に届けられなかった手紙を見つめる。
「……とりあえず、悪くないからもらっとこうか。」
誰にも郵送らないひとりごと。
差し出し人の顔も知らないで、とりあえずは心当たりの彼の顔を見に行こうかと、早速予定を立て始める。
もちろん、現在の心身ともに敗戦状態のまま、勢いで学校に乗り込んで心配をかけたくもないので、せめて回復を待ってから。
そうやって宗像が黄土の髪をなつかしく思い浮かべる時、
同じ色を持つ肉親もまた、似たような心配に気をもんでいるとはつゆ知らず――、
結局、親どころか友人の心も知らずに心のこもった服に袖を通して、
ひたすらみんなのために頑張っていたのは、たまに一人善がりなただの彼一人のみだった。