昔から、弟の目が苦手だった。私を見下すあの目が怖くて、どうしてそんな風に
見下される私が彼の姉として生まれてきたのか分からなかった。分からないと言えばついでにもう
ひとつ、そういった性悪説を唱える弟がどうして、私をお姉ちゃんとして慕ってくれるのかも。
昔から、弟にやさしくすることが苦手だった。生まれてこのかた一度たりとも、弟に積極的に
やさしく出来た覚えが私にはない。むしろ、私が彼に対してやさしくあろうとすればするほど私の起こした
行動は思惑を大きく外れ、あのか弱いきょうだいを傷つけていたように、振り返る今は思う。
(……やさしくしたかっただけなのに。)きつく唇を噛む。十五年間の生涯を振り返る時、
脳裏に断片的に浮かぶ幼い彼との思い出には、物騒な話、常に血や涙が付きまとう。
全ての原因は、年齢にも性別にも似つかわしくない、自己の持って生まれた異常性にあった。
腕力、脚力、握力、とにかく力を備え過ぎていた。
私が姉らしくその隣を歩けば、彼はたちまちつまずき転ぶ。私が姉らしくその手を引けば、手首を作用点に
してそれはぽきりと折れる。繰り返す損壊、損壊。当時の私は何をしでかしたかも覚えぬまま―――
どころか何が起こったかも分からぬまま、火がついたように泣き喚き始める弟をただ見下ろして、立ち尽す
しか出来なかったものだ。優位な立場に立つつもりなど毛頭なく、ましてや暴力を振るっている自覚も
ない。たとえ心を引っ繰り返して逆さに振った所で、そこには微塵も悪意や敵意は無かったと答えられる。
それでも、そんなことが続けば。『とても優秀で』『とても聡明な』『家族の自慢の』……『私の弟』。
間違ってもかすり傷ひとつ負わせるべきでない彼が、私のせいで何度も危険に晒される。
そんなことがいつまでも終わらなければ私の家族も黙っていない。
とは言っても幼い私に科されたのは、ただの最低限の線引き、いわゆる家族ルールというやつなのだろう。
従来と変わらない日常生活を送りながら、弟とだけは一切接触が無いように、
きわめて良心的かつ人権的に自由を保障され――引きこもらされただけなのだ。
ずっと二人で使っていた部屋から一人が『救われた』夜。
耳に慣れた寝息が下から聞こえない二段ベッドの二階部分に身を横たえて、私は目をつむる。眠りたくても
眠れない時間を何だかもったいなく感じて、弟のために使おうと、白く飛び跳ねる髪を思い浮かべる。
宙に伸ばした手は、当たり前のごとくに誰の頭を撫でることもなく空振った。
アルビノだの色素不全だの、かつて通った白い建物ではあれこれと仰々しくカルテに書かれたものだが。
綺麗と言う一言で済ませて、何がいけないと言う。家族を好きで綺麗だと恋い慕って、何が汚いと言う。
(『おねえちゃん――』)
冥利と冥加。アネとオトウト。異常と異常。片割れに
手の届かないこの寂しい場所で、最上の幸福と言う付けられた名前の意味だけが宙に浮いてやるせない。
そばに居たかった。片時も目を離さず、きょうだいを守りたかった。望む場所ならどこへでも、あの小さな
手を引いて連れて行ってやりたかった。姉と弟を区別するためだけに与えられた名前なんかどうでもいい。
いつでもたった一言、お姉ちゃんと呼ばれたらそれだけで胸が満ちていっぱいになったのに。
(……それは多分、最小の幸福。)
窓の外が見える方に首をかしげる。四角に切り取られた窓枠の中に、白い月が円を描く。
――不思議なことに、弟を傷つけたくない気持ちに比例して、私はより強くなることを望んだ。強すぎた
からこそ私は望まず弟を害し続けてきたのに、そんな矛盾は承知の上で私はいつからか最強を求めた。
もっともっと最も最も強くありたい。最強は幸福だ。
私はそれを疑わない。だって世界の誰よりも強くなれたなら、世界の誰からも弟を守ることが出来る
じゃないか。もしも弟に仇なし校舎を崩壊させてまで殴りかかるような荒くれ者がいたとして、
弟のそばに居られない私はしかし、弟に害の及ばない場所で必ずそいつを討ち倒すことだろう。
(私は、姉だ。)(年上なのだ。)
(だからってそれを理由に、冥利、などと生意気に呼び捨てたことは一度だって無いが)
冥利。冥利。冥利。
「……冥利くん。」
ベッドの一階から返事はない。
「……冥利くん。」
ベッドの一階から返事はない。
「……冥利。」
ベッドの上から――以前は返事が、あったのに。たとえ被害者が五歳も年下の子どもだと言うことを
差し引いても、果たして十歳にも満たない女の子の腕力で生身の人間にこれほどの損傷を負わせられるの
かと言うほどの怪我を、異常を制御出来ない私が負わせていた頃ならば、返事が。
どんな『姉弟げんか』の末にも、ついには病院のベッドに収容される羽目になっても、
冥利はあっけらかんと笑っていた。真っ白な病室の真っ白なベッドの上で、
真っ白な包帯に巻かれた真っ白い髪を所どころ飛び跳ねさせて、普通にいた。私が差し入れに本を
持って来た時などは、不自由そうな手つきでそれを受け取りながらも、笑ってぼやいていたのだ。
『何だお姉ちゃん、来てくれたのか……って、荀子なら暗記してんぞ。
次来る時ゃ甘いモン持ってきてくれよ甘いモン。見舞いの定番だろうが、
つーかプリンなら冥利ちゃんすっごく嬉しいナー。おっぱいプリンとか。ソッコー全治全快しちゃうぜ』
けけけ、と思いきり笑う表情は、唇の端に出来たかさぶたのせいでわずかに引きつれている。
私はそれをただ不思議に感じて、間髪入れず間抜けにも図々しくも訊いてしまっていた。
『……冥利くんは、早く退院したいの?』
『ンなことも分からねえの?』
決まってんじゃん、と見下すような言葉で彼は唇をとがらせる。
『オレ、ひとりでお医者さんごっこよかお姉ちゃんと遊びたくて仕方ねーよ。
そっちのがよっぽどリハビリになるってもんだ』
いいかげん焦らされた風に、彼が本を引っ張って初めて気が付く。
それまで、私が差し出した本から手を放すのをすっかり忘れていたことに。
もう一度手を繋ぎたいがために、手渡せる文庫本を選んで持って来たことに。
――暗い宙を泳がせていた手を、あきらめて私はシーツに沈ませた。
「冥利くん」
返事はない。夜の帳が落ちて何も見えない。
天井が近くて息苦しい。独り占めの二段ベッド。返事の来ない言語なんかに少しの意味も見出せない。
意味を見い出せない言語の代わりに、いつか二人でふざけて作った稚拙な暗号を暗闇に吐き出した。
「……4136.」
(おまえは。)(おまえはきっと、おねえちゃんがはじめてすきになったひとなんだ――)
その晩、産声をあげて以来、私は私の涙を見た。
あまりに久しぶりに溢れたそれは両の手のひらに留まりきらずに枕を濡らし、昇る朝日が闇という闇を
部屋から追い出す頃には、ベッドの一階部分までをも雨漏りのように濡らしてしまっていた。私はその水の
跡を眺めて、どこか夢心地に、弟がいつかおもらしをして泣いていた時の色褪せた光景を思い出した。
一般的もしくは科学的に、生きる過程で弟が姉よりも高い地位を獲得することはあっても、生きている姉の
年齢を弟が越えることは不可能だ。その理はもちろん雲仙家にも適用されうるわけで、たとえ五年間の
タイムラグを置いて生まれた弟が私よりも先に高校に飛び級入学したとして、日本語の家族間呼称が大幅に
変わりでもしない限り、彼が私の兄になることなどはまずあり得ない。私が彼を追って同じ学園への進路
選択をしたのだとしても、私達が姉と弟であること、それは永劫不変の事実であった。
七月十五日。ゆえに今日も、弟は私を姉と呼ぶ。引き離されてからも夜な夜な隙を見ては私のもとへと
顔を見せていた弟は、私を真っ直ぐに見上げて言う。あんなに苦手だった、あの目で見上げて希う。
「一生のお願いだ、お姉ちゃん。
フラスコ計画をぶち壊してついでに黒神を連れ戻すのに、お姉ちゃんの力を、怪力を貸してくれねーか?」
土を下に座すると書いて、土下座。風紀を司る腕章と位ある制服を身に着けてのそれは、
まさしく一生のお願いだった。入学以来校内で初めて顔を合わせたと思えばいきなりこれで、私の頭には
ひとつの数字もとっさに浮かばない。そもそも私が最近学園に登校し始めたのはその計画に参加するため
であり、また弟をいじめたと言う生徒会長に仕返しをするためでもあったのだが、いかにも話は急である。
仕返し。急な話。しかし。私が見下ろした彼は、話に聞く所の、上から目線の彼女を助けたいと言う。
「………」
……くだらない。それが弟の正義と誇りを賭けた発言である限り、頷くか否かに迷うまでもない話だった。
身にまとうメイド服は最初からあなたへの忠義の証。たずさえた鉄球は、反逆者に振りかざすギロチン。
何色とも相容れない白い髪には何の理由もないが、ただ、弟のそれは私のお下がりなのだろうと思う。
「……435254.」
(いいだろう。)(否――承知いたしました、ご主人様。)(貴方の正義に私めは従いましょう。)
スカートの裾を折って私はしゃがみ、地に額を擦りつける弟の、
頭の上でそろえられた手を慎重に取り上げる。今度はもう、
無意識の暴力で傷をつけたりしないと心に誓う。そうして扱った指先は、火山のようにも熱かった。
同時に私は少しだけ、とても口には出せない感情を心の底に抱いてほっとする。いざというこの時、弟が
呼子とか言うあの側近ではなく私の力を頼ってくれて良かった。などと。そんな心中を知る由もない彼は
しかし、手を引かれるままにゆるりと立ちあがり、そっぽを向いて口ごもった。
「……悪り、お姉ちゃん。鬼瀬ちゃんにもヘルプお願いしちった。さすがに土下座はしてね―けど」
「.?」
「でも結局のところさあ、俺ってばお姉ちゃんっ子だから」
抑揚のはっきりしない最初の言葉を聞き逃してしまう。ただし続く言葉に気持ちは浮かれて、私は
聞き返すことさえ忘れてしまった。今は弟の服についた土埃をぎこちなくはたいてやることに忙しい。
昔から弟の目が苦手だったけれど。彼の目がそらされて見えないのが、今は嬉しくない。
視線がこちらを向いていないと言うことは、つまり、弟が私に背を向けて私の前を歩いて
いることに他ならないからだ。メイドたるものその背中に黙って従えばいいのかも知れないけれど、
姉としてのプライドはそこら辺りの邪魔をする。きょうだいとは、何と難しいのだろう。
やがてあらかた整え直した制服の袖口をかるく引っ張って、懐かしい風に彼は笑う。
大きな陰謀に立ち向かっているとはとても感じさせない、子どもらしい幼い笑顔を浮かべる。
前髪や頬はまだわずかに土で汚れているのにも構わない様子に、
私は、鉄球ではなくタオルを持って来ればよかったと今更に悔いた。
昇る太陽が、彼の小さな背中を照らし出す。
「さあ、もたもたしてっと美味い登場のタイミングを逃しちまう。負け犬も六人寄れば十万馬力ってか?」
「≪行ってらっしゃいませ、ご主人様。そしてお供つかまつります――冥利。≫」
「……そりゃどうも、お姉様。」
「―――……」
冥利は横顔だけで振り向いて言った。
そのまますぐに時計台の方角に歩き出すから、それについて私は何も返事が出来ない。
姉であること。それは私にとってこの上ない幸福だ。背負った名前に五歳の差はない。
どちらがすごいかなんて、どちらが幸せかなんて無関係に。見下そうがどうしようが、
生徒会長を助けようとする委員会長を助けようとする私は、永劫不変に雲仙冥利の唯一の姉だと胸を張る。
それだけのために他の何にも心を動かしたりしない、絶対忠誠の騎士ならぬ給仕。
鎖に繋がる鉄球に朝日が反射して鈍く光る。それが眩しかったのかそれとも単に心の機微なのか、
細めた目で、立ちあがった冥利は確かに私を見上げていた。