ななしのピアニスト

今日も病室に遊びに来た実理は、名演奏を聞かせてくれたお礼にと、梨をおすそ分けしてくれた。
危なげな手つきでおっかなびっくり握る果物ナイフは、ちょっとひやひやするが――
皮を剥いて切り分けるまでを辛抱強く見守ってからの、爪楊枝で口もとに運ばれる、その甘さや。

「サクヨシ、美味しい?」
「うめェ。マジ美味ェこれ初物だし。あと、オレの名前は“サクヨシ”じゃねェ」
「むふー。なんだかそっちの方がらしいのにな、だってサクラって響きだと、女の子かと思うじゃない」
「……」

返事をしないのは、もう二口目の梨を咀嚼しているから。
 
頬張りながら、閉め切られたドアをちらと見やる。病室の入り口には部屋番号と漢字の名前しか
案内されていないものの、ベッドの枕元にあるネームプレートにはきちんと振り仮名も振ってあるのだ。
しかし実理は最初にオレを“サクヨシ”だと間違えて以来、気に入ってよくそう呼ぶ。
確かに、そっちの方が男の名前って感じはするが。

「って人のことは言えないか、私もよく人に名前間違われるしね、“ミノリ”って。
“ミリ”って、字足らずな感じだし……、『無理』に似てるのも、なんだかね?」
「……そんなの気にすんの、お前だけじゃねェの? それとも他人に、言われたり」
「まっさか。でもまあサクヨシの言う通りか、気にしてるのは、私だけだ」

くすくす、しゃりしゃり、食べては笑う、鈴を転がすような音に耳を傾ける。
ひと切れの梨を口もとに運んで寄せてくれる指先の、絆創膏の下の傷の深さを目測し。
(心の声が、聞こえるか。ピアノを弾けるようにとだけ、オレが治ることしか考えていない、その頭の中。)

オレは――“サクヨシ”は、名前を間違えた“ミリ”の言い訳に、あの時何も言えなかった。
目が悪くて、名前の上の小さな振り仮名まで読めなかったのだそうだ。
以来はコンタクトレンズを着け始めたと聞いたが、じゃあいつになったら外していられるのかって、
逆のことを反対に聞けずに。逆に反対に、さかさまに。

「……反対……。そうか……、ミリとムリ。逆だから、無理、か」
「……え? 何それ何かの呪文? 推理?」
「反対語だよ。“無理”の逆で“実理”なんじゃね、何も無ェか、実りあるかっつー。つまり『ありの実』だ」

謎を解き明かす探偵気分で、オレは梨の減った皿を顎でしゃくって示す。
昔からある言い回しと同じことだ、縁起を担いでするめを「あたりめ」、梨を「ありの実」と呼ぶように、
何もない“無理”ではなく、実りある“実理”――対応しているから、三文字ではなく二文字の音で。

どうだ決まった、名推理。彼女がよくする仕草を真似て、むふうと鼻息を伸ばしてみたが。
やがて目の覚めるような拍手をして、彼女は頬を紅潮させる。

「きゃー知らなかったそういう事だったんだ! お父さんとお母さんにも
由来なんてちゃんと聞いたことなかったのに、サクラってまるで親みたいだね!」
「…………」

格好いいとか頭いいとかじゃないんかい。
年上のやつをほめるのに純粋に『親みたい』と例える実理にオレは盛大にずっこける、
いや正確には、凛々しく形作っていた眉が、ショックで崩れただけなのだけれど……。

でもでも――サクラって。
やっとちゃんと、正しい名前で呼んでくれたのだから、いいか。
美味しい梨を年下の女子にあーんしてもらって、文句のつけようもあるはずもない。飽きるまで。
彼女が飽きるまででいいから。一緒に居るのが無理になるまで、実りある時間と過ごすくらいのことは。

「……あ、最後の一個。悪ィな、オレ食い過ぎたからあとは実理が」
「はいあーん」
「むぐ」

持って生まれた名前にどこか似た、甘いありの実で口封じ。
そうしてまた笑う彼女を見るにつけ、無条件で守りたいと思うのも、すでに十分に親心なのかもしれない。