遠吠ダイヤモンド/ブルーバード・ストライク/repuesTune/ナイターブルース*イラスト付き

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遠吠ダイヤモンドブルーバード・ストライクrequesTuneナイターブルース

遠吠ダイヤモンド

吹奏楽なんて大嫌いだ。

全力疾走したら息切れするなんて、そんな当たり前のことをこんなに長い間忘れていた。
「突き刺さるような」音から思わず飛び退き走って走って逃げるただ中、
白球が眼下に飛び込んでくる。やべ、と思った時既に遅し、踏んづけた足を滑らせて秋空を見た。

「ンなっ!?」
「ああっごめん多田君! うっかり手元が狂って」
「はぁ!? こっちゃ足元を狂わせられ……ぐ、」

地面に背中を打ち付けてうまく息が吸えないでいると、
ぜぇぜぇと肩を上下させる安と、見知ったそいつのツラが覗きこんでくる。
土に汚れたジャージの袖口で、砂埃に曇るメガネを拭うムダさは今日も相変わらず
――日の当たらない中庭のコンクリ壁相手に投球と捕球を繰り返す自主練、
模擬戦に参加させてもらえない時間もそんな風に励むのは、同じ一年の野球部員、徳尾くらいだ。
しかし今日のツキの無さと言ったら――吹奏楽に追われて、結局、吹奏楽のもとへ戻ってしまうとは。

徳尾が中学から高校の一学期まで吹奏楽を続けていたことは、部内ではあまり知られていない。
ただでさえヒョロくて度の強いメガネの文化系が二学期を迎えた途端体育会系へ転身なんて、
夏休みに何かあったのか、小中同じ学校だった自分には余計に信じられなかった、が。

「吹奏楽部に、スゴ腕のトランペットの先輩がいてさ。なんていうか、凄すぎて、…………辞めちゃった!」
「……イヤイヤイヤ!? なんで辞めたんだとか興味もなけりゃ訊いてもねェけど!?」
「あ、うん。でも多田君、ノート写すまで時間かかりそうだし、世間話でもと」
「知るかダァホ」

朝の予鈴前、ギリギリで課題を写し終えたノートを放って返すと、ばらばらめくれるそれに奴は慌てて手を伸ばす。
勢い余って椅子から転げ落ちそうになるマヌケぶりなど、
隣の席で見ている方が驚いてとっさに首根っこを掴んで引き上げるほどだ……、ん?

「……あ、楽器辞めんならケガの心配も必要ねェか」
「え、え。いや、すごく助かったって! なにかお礼させてよ」
「パネェなお前。――じゃ、野球部入れよ。吹奏楽部の応援演奏ならベンチでも聞けるし、
雑用も二人でやるより三人でやった方がラクだからな」

ぶんぶん首をタテに振る徳尾にも、もう別に驚かない。
オレは吹奏楽なんて大嫌いだ。パッパラパッパラ耳障りなだけで、
こうして貴重な人員を引き抜かれても誰も引き止めに来たりしない、そういう部活だ。
それに実力もやる気も並以下、惰性で野球部に籍を置き続けているオレと安が
必然的に押し付けられる雑用も、どうせなら二人より三人でした方が。

以来、生真面目に入部した徳尾は、吹奏楽部の練習の音に耳を傾けながらムダな自主練と雑用に没頭し。
部活外で追試をサボったために草むしりを言いつけられたオレと安は、
吹奏楽部員のケンカに気まぐれに死球を投げ込んでみる。持ってる楽器の名前は知らない、
同級生の口から寂しげに聞いたトランペットなら分かるけど。

――その「分からない」楽器の音が風に乗って運ばれる中庭で、
徳尾はぺこぺこと小さな背をいっそう折り曲げる。

「多田君も安君も、本当にごめん!
二人ともランニング特訓してたのに、僕がボール飛ばしたせいで中断させちゃって」
「勘違いしすぎだろ。走ってただけだぞ」
「だな。ああ、ランニングには違いねェか」

素直に感心する徳尾に引いていたら、何故かこちらまで素直に納得させられてしまっていた。バカな。
とはいえこちらが真面目に部活に取り組んでいると思い込んでいる奴は、
真似のつもりかその場で二、三歩足踏みをしてみせる。改めて運動部員とは思えないよたついた足取りだ、
まったく理解出来ない。試合にも出られないのに、雑用が山積みなのに、
何故こいつはこの期に及んで野球をやっているのだろうか。もしかして、バカだからか?
そんな疑問は、走りまくって切れた息の代わりに、投げやりに口をついて出た。

「つかなんでお前、野球やってんの?」
「だって、『二人でするより三人でした方が楽しい』から……あ、」

(多分きっと、無意識で。)
皮肉じみた返しをしたことに、徳尾はあからさまにしまったと言う顔をした。
サイズの大きなグローブからボールがはらりとこぼれ落ち、俺はいつかと同じに手を伸ばしている。
ひったくるようにボールを掴み取ると、そうそれその速さだよ!と感動ぎみに両手ごと握られた。

「試合で見せてよ、もったいない!
僕なんて多田君と安君がくらいしか友達いないし、もともと身体弱いから運動に慣れたかったし。
あ、そうそう吹奏楽も肺活量鍛えようと思って始めたんだ」
「そこまで興味もなけりゃ訊いてもねェよ」
「あはは! でも――さっき初めて見たから。あんなに全力で走る多田君と安君、あれなら三塁踏むのも一瞬でいけるって」
「……あのなあ。いくらなんでも目が悪すぎるぞ」
「そうかな。メガネ手放せないから、こればっかりは」

九回裏に差し掛かってなお、吹奏楽部の演奏は奮わすようにも鳴り響く。
だけどオレはまだ、その音を嫌いなままだ。

(ダイヤモンドをどんなに走れど振り出しに戻るホームベース、どこにも行けないことなんか知ってた。)

知っていても――昔はそこに立ちたかったのだ。
ここを立ち退きたくないと思えるマウンドに、バッターボックスに。
子どもの頃に犬のように追いかけた白球も、その白が描く虹のような放物線も。
夢中だったあの頃も、速い球や選手の俊足が機雷や怪獣みたいに見えていた気がする。

……どっちにしたって、やられっぱなしは気に食わない。
たとえば吹奏楽部が見ている前で、元吹奏楽部だったメンバーや、
吹奏楽を嫌いな奴が活躍すれば、一泡吹かせられるんじゃないだろうか?
彼らが今日のことを覚えてなくても別にいい、どうせオレだって楽器の名前は覚えちゃいないんだ。

「安。草むしりと野球どっちする?」
「……野球してェな、どっちかつうと」
「うそ。本当に。じゃあ一緒に練習しようよ!」
「いいぜ。その代わり後で怒られたら、お前に部活に誘われたって言い訳するかんな」
「いいよ。それが、いいな。」

吹奏楽なんて大嫌いだ。
黙ってばかりじゃその音が聞こえるから、吠えて叫んで、打ち消してみるのだ。
そうしてその日は日が暮れるまで、負け犬のようにオレ達は、ボールを必死に追いかけた。

(『……子どもの頃は、外で自由に野球をする君たちの輪に加わりたくて仕方なかったのに。
それが全部つながって叶う、友達に部活に誘われる、こんな十年ぶりも悪くない。
僕が野球部にいる理由は、訊かれてもないけど、たったそれだけのことなのだ。』)

ブルーバード・ストライク

三月に入ればさすがに、校庭にぽつんと建つ部室に居てすきま風に震えることもなくなった。
とは言え決して広くない場所だ、昼飯を食うためだけに好き好んで身を寄せ合う理由もないのだが、
マネージャーの一声をきっかけに年を越しても習慣は続いている……。そうして今日も集まって、
小学生みたいにいそいそと机同士をくっつける、そいつのメニューがおかしなことに気が付いた。

オレは家で持たされた弁当箱を開き、隣で多田はおにぎりのビニール包装を剥ぎ、
向かいの徳尾は一口タイプのこんにゃくゼリーの袋を開けながら水筒を取り出していた。
いつもは器用に手作り弁当を持ってきているのに、今日に限ってどういうことだ?
同じ疑問を浮かべたか、しゃけにぎり片手に多田は不躾にそれにツッコむ、時速何百kmかのド直球で。

「んだよ、しけた昼飯だな」
「はあ、ごもっとも。今朝は寝坊しちゃって作る時間なかったんだ、
普段もそこまで凝った料理するわけでもないけど、でも、あんまり夢見が良かったから……
マウンドに立って、サックスで、Take me out to the ball gameなんて吹いてたよ。
ちなみにこの曲はコーラスは有名だけどイントロ部分はあまり知られてなくてねえ、」
「だから誰もそこまで聞いてねーっつの」

楊枝に刺したミートボールをオレの弁当箱からつまみ上げた多田は(ちょっと待て)、
黙ってろと言わんばかりにそれを徳尾の口に突っ込んだ。
ぴーちくぱーちく、お喋りを強制終了させられた彼は口をもごもごさせながら頷いたかと思うと、
袋から取り出したゼリー1個を多田に、もう1個を供給元のオレへとお礼のように差し出す。
なんだこの三角貿易もどき。ってか鳥の餌付けか何かか、これ?

「お前らってなんか、親鳥とヒナ鳥みてーだなあ……」
「ねーよ」
「あー分かる。だって今の多田君の頭、ツンツンしてヒヨコみたいだし」
「オレがヒナ側?!」

てめェもどっこいだろが、と大きな掌が小さな頭をがしっと掴む。
そのままぐらぐら揺さぶられて、徳尾はひゃあと目を回した。
後ろ姿だけなら以前は女子にも見間違えられていたその繊細な黒髪は、元通りとはいかないまでも――
坊主にしてから三ヶ月、辛うじてベリーショートだと呼べるくらいには伸びたかもしれない。

まさにやぶへび、通りすがりに絡んだ吹奏楽からみっともなく逃げおおせた翌日から
――オレ達三人は、まず形から野球部に入り直すかと、頭を丸めることにした。
何も徳尾まで付き合わせるつもりは毛頭なかったが、
実際ついてきてさっさと理容椅子に掛けて手近な週刊誌を開くあたり、今さら止めてもムダだろう。

「これだ! こんな風にしてください!」

指さす週刊誌の見開きページ、
そこにはスキャンダルを詫びるために自ら丸刈りにしたアイドルの写真がでかでかと載っている。
これはちょっと流行遅れじゃないかい、と老眼鏡を押し上げる店主のじいさんに(そういう問題か?)、
背もたれに頭を預けながら彼は首を横に振った。

「いいんです、僕ら、野球部なので。」

ほう卓球部かねと感心する言葉は正さず、にこりと目を細めるだけ。
そうだ、野球部なんだった――これから三人で、野球を始めるんだと。
まあ、黒髪の束を無情に食い荒らすバリカンを、つまらなそうに多田がねめつけた訳なんて知ったこっちゃないが……
結果的にオレ達は、「三人で」野球をする機会を髪もろとも切り捨ててしまったのかも。

『多田君と安君は本気出したらすごいんです。磨けば光る原石です』
『僕は入部テストの結果が散々だったにもかかわらず、野球部に入れてもらえた。
人手不足だと言うなら、この際、ちゃんとマネージャーの役を担いたい』

だから誰も、オレ達もそこまで――そんなことまで、聞いてない。
仲間と先輩たちを前にそう口火を切る徳尾は、ぴーちくぱーちく、強かだ。

「……なーんつって、誰もそこまで興味もなければ訊いてもねェけどさー。」

ひとりごちて、いつの間にやら自分そっちのけで押し問答する二人を見やる。
いつの間にやらデーゲーム、実況・解説に回ってしまったか――この席からだとよく見える、
訊かれていないことまでもパッパラ喋って手の内をすべて明かすことで、隔たりを埋めようとする心遣いも。
これでは確かに吹奏楽は向いていまい、だって吹いてたら一言も喋れないし。

その内に彼らは目の前で、買い過ぎたおにぎりを一つやるだの、いらないだの騒ぎ出すので
(ちゃんと食べないとお腹空くよ、とはもっともなマネージャーの訴えだ)、
オレはとりあえず「一口ならいいだろ」と、うずらのゆで卵を差し出し割って入った。
戸惑いがちにゼリーの残りを探る手に無理やり押し付ければやっと静かになる、
だってただでさえ小食な奴からそう何度もおかずを取り上げるのは、カツアゲでもしているような罪悪感が

「痛って!」
「うるせェ安。スパイクじゃねェだけましだろが」

話の途中、机の下で多田に思い切り足を踏まれた。ナゼだ。
ムカッときて即座に踏み返したらすごい目つきで睨まれた、
まるで盗塁、とんびに油揚げでもさらわれたような被害者ヅラである。
バカバカしい、オレは昼飯を分けただけで、何も多田のおかずを横取りした訳じゃ……、ん?

「……あー分かる。今分かったわ、やっぱお前ヒナな、頭どころか頭の中身までツンツンしやがって」
「なッ、」
「ぷはぁっ!」

痛いところを死球で突かれた、そんな彼の横で徳尾は、一触即発の空気を割るよに手を打ってぱーちく笑う。
春先の土の匂いと生温さと雨上がりの湿りけが混じりあう、この席からは、そんな快打も良く見える。
殻みたいに固い頭してた昔じゃ、その意味を掴み損ねただろう。
覆い隠した視界のせいで、見えないエラーを繰り返して。

「ケンカはダメだよ。何かあって、野球の試合に連れてってもらえなくなったら、大変だ――」

誰もそこまで聞いてない、いらぬ心配をさえずって。
バットもグローブも持たない素手は、羽根も生やさぬままに、青空の下に快音を響かせた。

requesTune

「好きな曲を聞かせてください。」
土埃にまみれたボールを手洗い場でひとり磨いている時、そんな電話がかかってきた。

カミネと名乗る同級生の吹奏楽部員が僕に連絡を取ってきたのは、センバツ初戦一週間前。
彼に応援演奏の指揮を頼んだ件はすでに聞いていたけれど、こうして話してみると、
僕が吹奏楽部に在籍していた一学期には会っていないようだ。ということは彼が、あの「未成年の主張」で
刻阪君にスカウトされた「神峰」君か――入部まもなくして大抜擢だなあと感心していると、
神峰君は秘密のサインのごとく、ひそめた声で話し始めた。

「やっとで聞いたんだ、他にアテがねェから、家の人に電話番号教えてもらって。
実は、第一試合のことなんだが……多田と安が『今一番好きな曲』を、内緒で教えてくれねェか?」

指揮というより監督の戦術みたいな彼のプランによると、
通常の応援演奏曲に加えて9曲、選手達の最高のナンバーをここぞという場面でやる腹積もりらしい。
しかし二人の場合、二人こそが一番好みの知れた友達だし、せめて試合に出ない腐れ縁の僕に聞くしかない
というわけで……辺りを見回して、誰にも通話を聞かれていないのを確かめてから、
グラウンドから死角になる手洗い場の陰にしゃがみ込み、頭を働かせる。

今一番好きな曲――安君は、朝練に来る時いつもイヤホンで音楽を聴いているよな。
他の選手と話している時小耳に挟んだ、確か、HYのガジュマルビ一ト。いわく四つ打ちは通学曲だとか。
多田君は、セ力イノオワリのRPG。間違いない、お勧めを聞かれた僕が
教えたそれを何周もループしている……とは、こっそり安君に聞かされたことだ。

と、訊かれてもない付随情報までバラして(神峰君も熱心にあいづちを打ってくれるからつい)、
もう少し念のために。スケジュール上楽譜もすぐ用意出来なければ困るだろう、
曲の変更を迫られた時のために他にも2、3曲候補を伝えると、電話口で感嘆の声が響く。

「うおお、気遣いすげェな……、さすが、マネージャー!」

あ、忘れかけてた、ボールの手入れの最中だったこと。
(入部以来、補欠にすら入らない僕は結局、選手達のサポートにちゃっかり落ち着いていたりする。)
全員が同じ舞台に立つ吹奏楽部では意外と分からないものだ、完全な『裏方』はすごく自分の
性に合っている――とは言え今は慌てなきゃ、走り込みに出払った皆が、そろそろ帰ってくるかも!

そして最後に、神峰君は何度もお礼を言ってくれた。

「絶対期待に応えっから、それと、選手の皆には秘密だから。じゃあまた、当日に。」
「うん。あぁあと、もう一つ――吹奏楽部の二年生に、スゴ腕のトランペットの先輩がいたよね?」
「ん、いるな。まあ、一度辞めたんだけど戻ってきてくれて。」
「…………。その人も、来てくれるのかな?」
「? ああ、先輩は谺先生と同じで、来れねェんだ。コンテストに出るのは金管六重奏だから」
「……そっか、分かった、じゃあ――好きな曲を、聞かせてください。選手達に、好きな曲を。」
「もちろん、必ずだ。」

『少し寂しい』なんて、応援演奏の主力が足りずに奮闘する指揮者にこぼすのはお門違い。
けれども一瞬心の中でそう思う、だって僕は今でも、やり遂げられなくても、吹奏楽が大好きなのだ。

(そして一方、電話を置いた神峰はふと思っている。
スゴ腕の先輩がいたと、どうして過去形で言ったのかと、首を傾げる。)

「――おい、徳尾大丈夫かっ」
「わぁ!!?」

通話を終えて携帯電話をポケットに押し込んだ時、背後から浴びせられた大声にひっくり返りそうになる。
見ればユニフォーム姿で汗だくになっている多田君が眉を吊り上げていて、
しゃがんだまま縮みあがる僕にはかまわず、カゴに洗いかけのボールを放り始めた。

「ったく、立てねーほど調子悪いならサボッてりゃいんだよ。
オレら走り込みでどーせ誰も見てねーんだから」
「へ……? あ!そうじゃないよ、ちょっと落ちたボール拾ってただけで」
「嘘つけ」
「ひっ」
「ほれ見ろ嘘じゃねーか!カマかけたらこれだ!」

大体お前って奴はなァ、とぶつぶつぼやきながらも手を止めないので、仕方なく僕も横でボールを集める。
せっかく部活に誘われたのに仕事一つ満足に出来ないなんて、マネージャー失格ではないだろうか。
落ち込んでいると、拾い上げた最後の一球を見つめる、多田君の目つきがいっそう悪くなった。
悪い目つきで、上から睨まれた。

「……やっぱアレだ。今言おうと思ったが、やっぱ勝ってから言うわ」
「うん。分かった」
「もの分かり良いな!くそっいい子ぶりやがって」
「いやあ、どうも。それに勝ってから聞けるんなら、もう一週間くらい待つよ。」

追及の手が緩んだ隙にカゴをするりと横取って、僕は一旦用具置き場へと踵を返す。
背後で聞こえるへたれた舌打ちをパーカッションのイントロとして、好きなあの曲が流れ出す――
だけどそれは当日まで内緒だから、僕は世界の誰にも聞こえぬように、小さくメロディを口ずさんだ。

ナイターブルース

まさか自分がテレビドラマのハッピーエンドに泣かされるとは思わなかった。
流れるお馴染みのメインテーマ曲にとはっと我に返り、洗濯機に入れずじまいの部活タオルを掴んで急いで
居間を出る。ドラマで泣いたなんて台所に立つ母親に知れたら大笑いされること請け合いだ……
まあすぐに目ざとく見つかり、「どこ行くの」との鋭い追及にはとっさにランニングだと誤魔化したが、
気が急くあまりサンダル履きで飛び出したと気付くのは、オチとして一刻のちに帰りついてからの話である。

六月。梅雨どきの蒸し暑い夜風が、Tシャツの裾をはためかす。
ああくそ、ドラマに出てきた最先端のカメラとは違い、この目に搭載されたイメージセンサーはろくすっぽ働いていない。
半分涙目のぼやける視界で、月明かりを頼りにあてなく走れ、その三歩先。

「あっ!! こんばんは多田君!!!」
「うわああぁ!!?」

突然暗闇からぶっ飛んできた大声に、オレは思わず仰け反った。サンダルが爪先からすっぽ抜けてたまらず
尻餅をつく、そうして心拍数の跳ね上がる胸を押さえつけながら、オモテを上げたら見慣れた顔――
心配そうに眉を下げる半泣きの徳尾が、実に頼りない細腕を差し伸べてきたのだった。

「や~それにしても偶然だなあ! 恥ずかしいんだけどここだけの話、ドラマ観て泣いちゃって
考えなしに飛び出してきたんだよね。ほら、急ぎすぎてサンダル履きのままだし、顔ベちゃベちゃだし、
まさか知ってる人に会うなんて思わな……アレ多田君、なんで顔拭いてるの?」
「うるせェな汗だよランニングしてたんだよてめーと一緒にすんな。あと誰もそこまで訊いてねェ」
「いや一緒にはしてないけど……。あっでも最終回は見たでしょ! 良いドラマだったね!」

うわこいつ面倒くさっ。
が、アイスをおごられている身で言えた事ではなかった。通り魔ばりに大声を出してオレをこけさせた
徳尾は曲がり角のコンビニまでひとっ走り、驚かせた詫びにと、しおらしく二人分のアイスを買ってきたのだ
(急に家を出るのにもしっかり小銭は備えておく、そういった辺りこいつの気配りは確かである)。
すぐにでも溶けてしまうものを突き返しも出来ず、なぁなぁ流され、寂しい公園のベンチで夜遊び。

やつが美味そうにかじりついているイチゴ味と手渡されたソーダ味、赤と青の色違いは、さっきまで
画面の中で戦いを繰り広げていたユニフォームの色を思わせた。社会人野球チームを擁する企業の商戦を描いたそのドラマは、
普段はもっぱらバラエティーか野球中継しか観ないという部員の間でも大流行りで、
明日の部活もきっとその話題で持ち切りだろう……泣くまでのやつが居るかは、分からないものの。

古ぼけた街灯の明かりの下で、徳尾が口を付けるアイスの棒の先になんとなく目が行った。
相変わらず詳しくはないが、こういう薄い木の板みたいな、なんか楽器にもついてた気がする。
……というかこいつの場合、『野球がテーマだから』ってだけではないんだろうな、ハマったのは。

「サントラもすごく格好よかったし。CD買っちゃおうかな。着信音にもしたい」
「ふーん。好きにしたら」

車の通りが途切れて辺りが静かになれば、ドラマチックに物語を彩ったテーマ曲の数々が頭の中で流れ始める。
お上品で小奇麗な感じ、だけどすっと耳に馴染む、息吹のような柔らかなサウンド。
その音楽を「吹きたい」とは彼はもう言わない、聞いてないことはぴーちくぱーちく喋るくせに……。

と、夜風に当たってアイスを食べたせいで身体が冷えたのか、徳尾は小さな肩をぶるりと震わせた。
言わんこっちゃない。バカがと小さくなじって持て余していたタオルを肩に掛けてやると、
やつはひどく面食らった風にタオルとオレとを見比べる。なんだ。文句でもあるのか、聞いてないぞ。

「……汗くさい」
「な」
「だよねえ、今日の練習メニュー、監督が張り切ってていつもより長くかかっちゃったし。
泣き言は言わないまでも、帰ったら最終回だーって呟いて頑張ってたね。今日もおつかれ様」
「は……はあ!? 泣いてねェし! つうか独り言まで盗み見してんなバカ!」
「あはは! 多田君は冷たいなあ、アイス食べたからかー……っくしょい!」

さっきまでハッピーエンドの余韻に涙ぐんでいたのに、今度は寒さに鼻をすすって笑う間抜けたやつ。
その割には他人の細かいところまで見ていたり、もしかして彼の目には高性能イメージセンサーでも
搭載されているんじゃないか? しかし気まぐれに見やった眼差しはもうどこか睡魔に負けそうで、
感想を熱く語るのは明日になるな――と、勝利の味、オレは最後の青い一口をかじった。